出発前に、姉の置きみやげがあった。
「あなたが良かったら、の話だけどね。ズケランのキャンプに、ジムを訪ねてみるといいわ。英語が上手な子を探しているから。わたしの妹だって言えば、オーケーのはずよ」
ヘノコで姉の仕事ぶりを高く評価してくれたジムという将校が、ズケランの米海兵隊に異動となった。その持ち場で欠員が生じ、補充スタッフとして、姉に誘いの電話があった。
那覇にも名護にも仕事は相変わらず見つからない。
また選択肢はなかったのである。面接して英語力を試され、採用になった。配属先は輸送部だった。米軍のジープからトラック、公用車に至るまで、全車両の維持管理をする仕事だ。走行距離、使用燃油量、走行目的など書面でチェックする。仕事はヘノコより数倍複雑になり、やりがいもあった。
顔を合わせる米国人は紳士的で、配属されたその職場に限れば、卑猥な言葉も行動も見聞きすることはなかった。名前を呼ばれる時、アクセントをつけて呼ばれると、つい微笑んでしまう。
ある日、基地の正門から出て、那覇に買い物に向かうバスの車内で、高校時代の同級生とぱったり顔を合わせた。
「久しぶり、今どうしてんの」
「うん、琉球銀行に勤めてる。もう三年目。やっと窓口を解放されたわ」
「そう、忙しいんでしょ。結婚は」
「うふふ、まあね。その時は知らせるわよ。で、美智子はなにしてんの」
「ズケランの基地に就職したばっかりよ」
「なあんだ。軍作業か。あなたまで、なんでそんなことするの」
自分の顔が凍りつくのがわかった。自分の仕事が軍作業と呼ばれているとは思わなかった。終戦の時、九割が焦土と化した那覇の街で、日本人捕虜を使って遺骨の収集や、土木作業など復興に向けての駐留軍の作業が始まった。それが軍作業と呼ばれているとは知っていたが、今の言葉には、それとまったく同じニュアンスの響きがあった。
「戦勝国を手助けする軍作業」
「しょせんお金が目的の軍作業」
気をつけていると、そんな言葉はその後もよく耳にした。言葉の響きに侮蔑感がにじみでている。それが嫌でたまらなかった。その響きの奥にひそむもの、それは沖縄のあの忌まわしい悲劇の歴史だ。
その悲しみをこんな形でひきずっていることに、どうしようもないむなしさを感じた。
終戦間際の悪夢は、母によく聞かされた。母は子供三人の手を引いて、砲弾乱れ飛ぶ中、サトウキビ畑を逃げまどい、地下壕にやっといたどりついたと聞いた。
一九四五年春、後方支援を含めると五十万人を超す沖縄攻略部隊は、南方諸島から攻めあがり、四月一日、本島中部の北谷(チャタン)から上陸、翌日には、コザ、具志川を攻略した。具志川には捕虜収容所が設けられ、各地で捕らえられた男たちが収容された。
草木ノ一本ニ至ルマデ武器トシテ、最後マデ戦闘シ、悠々ノ大義ニ生クベシ。
軍の玉砕方針さえなければ、親戚や知人の犠牲は避けられたかもしれない、と親は嘆きつづけた。沖縄戦の犠牲者は軍民合わせて二十万人にも上った。家族五人が全員無事だったことは、奇跡に思えた。
生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ。
この戦陣訓の延長に、軍作業をさげすむ底意を感じるのだった。渡航前に姉がつぶやいたーー日本人もつくづく嫌になったーーという言葉の意味が、その時になってやっと解せた。
本土に復帰したい。日本人に戻りたい……そのことは、手を合わせることはないけれど、心の中でいつも祈り続けていた。六〇年代半ばから祖国復帰運動が高まり、待遇改善を求める全軍労のストライキも増えた。普段の振る舞いは紳士的でも、政治や労働問題になると、米人上官は厳しく、冷淡である。「 「ストに参加すると、明日から仕事はないと思え。覚悟は出来ているんだろうな」
露骨な圧力をかけてくる。基地従業員は生活を優先する回避派とスト突入派の真っ二つに割れた。通勤のバスの車内でまで、醜い言い争いが続いた。是々非々でいくしかない。母娘の暮らしが基地に支えられている現実には抗しがたかった。
しかし、フェンスを一歩出ると、日本人の血が騒いだ。あんなに一生懸命に運動しているのに、素知らぬ顔などできない。炊き出しに加わり、デモにも参加した。それが伝わると、上司に脅されたが、ひるまなかった。(つづく)