上司と折り合いが悪くなった。配置替えを願うと、海兵隊基地司令部があるキャンプコートニーに配属された。英語力を買われたのだ。財政部会計担当を任された後、まもなく海兵隊の財政全体、予算、決算を管理する財政部監査セクションに回された。
軍作業から逃げ出したい、それに対する引け目は打ち消しがたいけれど、仕事は誠心誠意務めなければならない。すると、能力を見込まれて重要な仕事を任されていく。奇妙な歯がゆさを感じた。
だが、復帰運動に熱がこもるほど、自己矛盾に苦しんだ。小さな集会に参加すると、面と向かって突きつけられる。
「きみは、復帰を果たしさえすれば、沖縄に平和がもたらされると思っているのか」
「いえ、それだけでは、飢えた狼も消えることはないでしょう」
「じゃ、どうすればいいんだ」
「基地のない町、基地に頼らずに生きる沖縄を目指すべきかと」
「そうだ。真の自立と平和を勝ち取るには、基地の撤去しかない。その道を探らねばならない。それがこの地に生きる者の努めだ」
自己反省の日々が続く。意を決して、一九六七年四月、沖縄国際大短期大学の二部に入学した。教師をめざすことにしたのだ。
基地の仕事は午後四時半に終わるから、夜間なら通える。土曜日の休日は、一日中、大学で過ごし、集中的に講義を受けて単位を取得した。夢があると、生活は充実し、あっという間に二年が過ぎた。 卒業を控えて、教育実習がある。海兵隊には年休を申請して二週間の休暇をとった。
実習が終われば、いよいよ教師である。軍作業から逃れられると思うと、晴れやかな気分になった。しかも、教育実習の場は、我が母校の中学校だった。期待に胸を膨らませて、校門をくぐった。
ところがである。そこで、あの床下の恐怖に似た体験をするなど、誰が想像しえよう。学校は荒れ狂っていた。夢も期待も一日で吹っ飛んだ。初日、職員室でおなかが大きな妊婦の女教師にあいさつした。午後、その先生が泣きわめきながら職員室に戻ってきた。
授業中、机の間を教科書を読みながら歩いている時、足を故意に出されて転んだのだという。数日後、制服の下からナイフの刃をのぞかせて、にやりとされた時、体の震えがとまらなかった。放課後、教室に一人でいることができない。相談があると持ちかけられ、話を聞くと、女教師を乱暴しそこなった話を聞かされた。
「はっぷがしたら(ばらしたら)殺るぞ」
生きた心地がしない。校長に辞意をもらした。
「教師は三日やったらやめられんというほど。頑張ってみなさい」
そう励まされて、もう一度、教壇に立った。子供たちが荒れる原因、それもまた敗戦と基地に絡む諸々の要因がもたらしたものである。もちろん、そんな生徒ばかりではない。自宅に訪ねて作文をくれた生徒たちがいた。文集には、小さな思い出とともに、学校に残ってほしいと綴られていた。
しかし、後をつけられたり、体を触られたり、身の危険を感じることもあって、教師への情熱は冷め、情けないと思いつつ、挫折してしまった。幼いのころの恐怖は一生ぬぐえないものなのか。キャンプコートニーのゲートを再びくぐった時、己のふがいなさを嘆き、皮肉な運命を呪いたくなった。自信を失ったけれど、何か別の道を探らねばならない。生きるすべを見つけようと模索している時、知り合いからある男性を紹介された。
「奥さんを亡くして、元気がないんだ。優秀な人なんだけどね。お互い励まし合って生きるのも悪くないんじゃないか」
そう勧められて見合いした。英語がめっぽう上手で、話がはずんだ。三歳年上だった。奥さんは難病に苦しみ、看病の末、亡くなったと聞いた。寝たきりの母を面倒みなければならない。同居してくれるという言葉に救われた気がして結婚した。その時、彼は米国人と沖縄の夜の女性に絡んだトラブルや身の上相談に乗る団体の仕事に就いていた。
スーバニア・ベビー(置きみやげ赤ちゃん)という言葉にあるように、私生児や混血児の問題もまた、沖縄の悲劇だった。朝食を済ませると、二人出勤した。結婚生活はごく普通にスタートし、長女も誕生した。
深夜にサイレンが鳴り響いた。午前零時、沖縄全土で一斉に鳴らされた。一九七二年五月十五日、沖縄はついに祖国に復帰した。
よかった、よかったという思いだけで、言葉がない。朝になると、どしゃぶりの雨だった。傘もささず、庭に飛び出した。髪も服も手のひらもずぶ濡れになった。何かを洗い落としてしまいたかった。濡れしぼんだ日の丸を見ながら、「これでやっと日本人になれた」と涙をこぼした。(つづく)