夫とは三年前から別居した。母の実家を建て替え、娘を連れて家を飛び出してしまった。
 その数年前だったか。基地で日本人の管理職としては高度の仕事があった。英語を駆使して、基地と日本政府の交渉ごとを司る仕事だ。彼にぴったりに思えた。
  「上官もわたしの主人だったらと言ってくれるの。やっぱり外で働かなきゃ駄目よ」
  「うーん、どうかな」
  「大丈夫よ。あなたならやれる。知識がある人でなきゃ、務まらないっていうから」
  彼の次の言葉は、決定的だった。
  「だって、軍作業だろ。おれはいいよ」
 横顔に、あの蔑みを見てしまった。
  「だって、あなた、その仕事をするわたしの給与で暮らしているんじゃないの」
  そう言い返したかったが、この時も顔が凍りついて、何も言えなかった どうしてこんなに苦しまなければならないのか。基地に勤める人はみんなこうなのか。それとも、自分だけが優柔で弱虫だから乗り切れないのか。一番理解してほしい人の心の底を見せつけられ、関係が冷えていくのを止める気もなかった。
 しかし、思えば、最初から成り立ちえない結婚だった気もする。
 彼にとって、米軍は許せる存在ではなかった。むしろ憎悪の対象でしかない。彼の一家は戦時中、サイパン島に移民し、そこで平和に暮らしていた。
 四三年、ガダルカナルに始まる米軍の猛反撃で、日本軍は次々に壊滅していった。サイパンに米空軍の空爆が展開されたのは、四四年六月十一日である。十五日には七万人の米軍が上陸を開始、日本軍はじりじり北部山岳地帯に後退した。
 中部太平洋方面艦隊司令官南雲忠一中将の最後の訓示にいう。
  「止マルモ死、進ムモ死、死生命アリ……生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」
 四万の日本軍が玉砕、マッピ岬の断崖から多くの人々が身を躍らせて自決した。
 彼は父を空爆で失い、母もまた砲弾に倒れ、両の手にしかと抱かれたその胸の中で、彼は助かったのだ。星条旗を呪う夫の気持ちはよくわかる。戦争孤児になって、戦後、沖縄に戻ったのだ。生きるということの意味も自信も見失って、日々、苦悩しながらさまよっていたのかもしれない。
 二人で話し合った。これからの老後、互いの心に闇を抱いて生きる必要があるんだろうか、と。もう腹は固まっていた。
 定年を迎えたその日、夫を訪ねて離婚を口にした。彼も特に反対することはなく、別離は決定した。眉をひそめる人もいるだろう。けれども、苦渋の歴史の上の、当人しか理解しえぬ、これもまた苦渋の決断だと思う。 墓室から出て正面に座った。木漏れ日がさしている。娘たちは立派に育った。上の娘は、米国の大学院で学究生活を送ることになるかもしれない。二番目の娘も看護士として充実した生活を送っている。移民した姉は、カナダで知り合ったアメリカ人の航空技師と結婚して、ハワイで暮らしている。   今、墨でこころ洗われる日々である。水墨画の世界に、安らぎを見いだした。和紙ににじむ黒墨を見ると、心がなごむ。悲惨な歴史にひきずられ、辛く苦しいことばかり続いたわが旅路が、今にして思えば、愛しく感じられる瞬間もある。線香に火をつけて合掌し、母に語りかけた。
  「お母さん、ヌチデュータカラ、だよね」
  母も、姉も、別れた夫も、わたしも一番好きな言葉だったかもしれない。命こそ宝ーどんなに苦しくても生き抜くしかない。生きるしかない。沖縄の苦難の風土が生んだ、古くからの言い伝えである。(了)    

「軍作業の女」第七回=最終回