視線をあげた先の路面は、強烈な陽が輝り返し、陽炎のようにもやっている。
 ハンドルを握る手がじっとりと汗ばみ、背中から流れ落ちた汗がズボンの裏に滴ってむずがゆい。まだ朝の九時前である。
 「ああ、たまらねえ。ったく、この夏の暑さったらねえな」
 小林正は、二の腕でおでこをぬぐいながらぼやきはしたが、ペダルはいっときだって止めやしない。
 日活撮影所(調布市)の通りを自転車で通って四十年になる。定期券は一度も手にしたことがない。NHKの朝の連ドラが終わる頃、多摩川団地四階の階段を降りる。
 自転車は一階の郵便ポストの脇に置いている。自転車にまたがると、「窮屈そうだな」と冷やかされるが、それは、かみさんのお古だからだ。その前は一人娘が乗り古した赤い自転車に乗っていた。
 サドルにまたがる前に、野球帽のひさしに手をやるのが決まりのポーズである。それからおもむろに、よいこらしょっとガニまたでこぎ出す。
 バス通りに出て、交番前の横断歩道を渡って西に向かうと、まもなく中学校前のT字路にぶつかる。そこを左折して多摩川の土手に向かって走ると撮影所の通りである。自宅から十分とかからない。
 暑かろうが寒かろうが、やっぱりこの道はいい。砂利道のころから走り続けている。
 小林旭だって渡の哲ちゃんだって、最初のころは、京王線の布田駅から下駄の音鳴らして、ここに通ったものだ。
 桜の木が植えられたのは、裕ちゃんがタフガイとして売り出した後だった。その桜は今も、春四月、見事な花を咲かせている。
 桜吹雪の下を何百回通り過ぎただろう。悔し涙をこぼしながら帰ったこともあれば、はつらつと小躍りしてペダルを踏んだ日もある。横殴りの雨にたタカれ、強風に背をすぼめて道を急いだ日もあった。様々な思いが込められたこの道とも、しかし、あと数週間で別れである。
 長かった、辛かった、ああ、やっと終わった。一人で走っていると、そんな思いに強くかられる。
 撮影所に着くと、正門手前の通用門から入る。門のとこは小さな坂になっており、左手に稲荷大明神がある。赤い鳥居のわきでは、三人の偉人が毎朝無言で出迎えてくれることになっている。
 乃木将軍と聖書を開いたキリスト様とマリア様だ。
 撮影に使った等身大の石膏像である。足元にはロダンの考える人も鎮座している。
 「明朗会計 バーひぐらし」のピンクのネオン看板が無造作に放り出された軒下に自転車を止めた。この猥雑さが気に入っている。へんに片づけられたら不機嫌にさえなる。撮影所はこうでなくっちゃいけねえと思う。
 そこをまっすぐ進むと、右手に中学校の体育館の倍はあるでっかい木造家屋がある。ここが大作業場だ。あたりには材木が雑然と立てかけられ、杉や檜の香りがする。使い古しの障子戸や雨戸、矜持類も所狭しと積み重ねてある。古井戸も転がっていた。
 表扉は厚い鉄板である。
 「赤木圭一郎は、この扉にゴーカートで激突して死んだんだ。小林、ここが、お前の働き場だ」
 山梨との県境、信州・八ケ岳山麓の富士見町から上京した時、先輩にそう言われて尻込みした。和製ジェームス・ディーン逝く、ああショックと自分の友人が亡くなったみたいに、田舎でしょげていたのに、その半年後、そこが自分の働き場になってがく然としたのが、昨日のように思えるのだった。
 あれはもう、四十年以上前の一九六一年のことだったか

自転車の男 第1回

「憧れの赤木圭一郎」