あれは十七の春だった。
 名護の英語学校をやっと卒業できる見通しがたったのに、まるで仕事がない。高校を出た後も、勤め先が見つからず、和文タイプを習いに行った。半年間通ってマスターしたが、那覇の会社や職安にそれを生かす仕事はなかった。それで、英語を学ぶ気になった。英語を身につけていると、沖縄では色んな融通が利く。名護英語学校からは琉球大の大学院に進んだり、外国に留学したり、沖縄の名門校とされていた。
 入学金を母に出してもらったが、一カ月百五十円の寮の食費に困った。まかない婦みたいなアルバイトをして何とかしのいだ。卒業さえすれば、なんとかなると思ったのだ。
 困り果てて、何かと相談に乗ってくれていた校長先生をたずねた。
 「ヘノコならあるけど、ヘノコでいいか」
 「ヘノコって、あのヘノコ……」
 「そう。米軍基地の電話交換手さ。そこなら空いているそうだ」
 辺野古(ヘノコ)は、米軍の弾薬庫がある基地である。名護市の東海岸にある。弾薬庫と聞いただけで身の毛がよだつ思いだ。無言だった。
 「そうか。行きたくないか」
 校長は、それもわかる、という態度で、それ以上勧めることはなかった。三つ違いの姉が、そこでやはり電話交換手をしていた。校長はそのことを知らない。だから偶然のことだけれど、姉が苦渋の決断をしたときのことは知っている。それは、言葉にできないほどの辛さだ。その選択を今、自分もまた課せられるのだ。
 小学生四年生ごろのことである。夕食が終わると、母は夜なべの裁縫をする。小さなちゃぶ台を囲んで、姉たちと教科書を開いていると、突然、母が姉の肩をたたきながら立ち上がった。顔が青ざめて引きつっている。
 「どうしたの、母さん」 思わず問い返すと、唇に指を当て、「シーッ」というしぐさをした。母が電灯を消し、一番上の姉が台所の床板をはずした。
 「清美、早く。音を立てないで」
 姉に手招きされて、床下にもぐった。四人が地面に横たわるように潜むと、床板を元通りにはめた。砂利道を走る荒々しい革靴の音が聞こえた。足元に缶詰の空き缶があった。つま先で蹴って、ことんと音を立てると、母が手首をぎゅっと引っ張って、しっかりと胸に抱き留めてくれた。息をひそめていると、猛々しい叫び声が流れてきた。
 「ベイビー、マイベイビー」
 「カモン、ヘイ、オンナ、カモン」
 飢えた狼のうなり声だ。夜になると、米軍基地から兵士たちが金網を越えて、女狩りに襲ってくるのだった。基地の裏門のすぐ近くに当時の家はあった。夏は一か月に何度も危機がある。それは終戦の年からずっと続いていた。
 父や兄がいてくれたらと、この時ほど思ったことはない。父はいなかった。小学校三年生の時、急死したのだ。 酸素ボンベを打ち鳴らす音も、耳底に残っている。民家に忍び込んだ米兵がその家の妻や娘を襲う。銃を所持した男たちに刃向かうことはCP(民警)でもできなかった。
 近所の人か誰かが、カンカンカンとボンベをたたいて、異常事態を知らせる音だった。似たような音を聞くと、今も底知れぬ恐怖が突き上げてくる。
 女の人が襲われるということが、どんな意味を持つのかと知ってからは、ただ米兵への憎悪が募った。基地を視界から遠ざけたかった。芋掘りの帰りやサトウキビ畑などいたる所で暴行が繰り返された。集団で襲われることもある、逃げ遅れた一人が後から服を乱して帰ってくる。妊娠させられて、子供を産んだという話がどこからともなく流れてくる。耳にしたくなくとも、周期的に聞かされた。そのたびに、フェンスの向こう側を呪った。
 校長が口にした「ヘノコならあるけど……」という言葉には、そうした諸々の出来事と感情が入り交じっているのだ。基地で働くために英語を学んだつもりはない。英語を使えてこそ、初めてフェンスの外で彼らと対等に対峙できるという思いがあった。
 校長室を無言で出た。何か職を得なければならない。母の顔が浮かんだ。若いころの無理がたたって、体の不調を訴える日が増えた。仕事がないと聞くと、寂しそうな顔をするのは目に見えている。それだけは嫌だった。
 父が死ぬ前年だったか、父と母が娘三人を連れて畑に行った。
 「お父さん、ご飯が食べたい」
 娘たちにねだられたので、リヤカーに鍬や鍬を乗せて、野菜畑に向かったのだ。
 「ここをみんなで耕そう。水田にするんだ。白いおいしいご飯ができるぞ」
 姉妹三人は躍り上がって喜んだ。土盛りをして、水路を作り、一家五人が笑いながら手作業した。田植えをして、秋に収穫した時のうれしさ、家族の輝く表情は今も忘れない。(つづく)

「軍作業の女」第二回