「軍作業の女」第三回

 土盛りをして、水路を作り、一家五人が笑いながら手作業した。田植えをして、秋に収穫した時のうれしさ、家族の輝く表情は今も忘れない。
 しかし、喜びはつかの間だった。とれたての米は、それこそ茶碗に二、三杯分だけ家族の分を取り置くと、母は無言でリヤカーに米俵を積み込んだ。コザの十字路に市が立つ。空きっ腹でリヤカーを押しながら、涙がこぼれた。だから、コザの十字路は母の顔を思い出すのだった。
 売らなければ、授業料も衣服も買えなかった。結局、また芋ばかり食べる日が続いた。ただ、水田は微かな望みをもたらした。畑と水田を耕し、一家の先行きにほのかな光が差し込んでくるように感じたその時、父が心筋梗塞で急死したのだった。
 生活はどん底を突いた。気丈な母は、農作業のかたわら、日雇いの土方もした。和裁の夜なべもこなして、娘三人を高校まであげてくれたのだった。
 母を助けたくて、高校は服飾課程に進んだが、授業に使う材料の布を買う金がなく、母に内証で一度退学を申し出た。先生が「娘の布が余っているので使えばいい」と言ってくれ、その後も何かと世話になり、なんとか卒業証書を手に出来たのだった。
 姉が基地に勤めると聞いた時、どちらかといえば批判的なことを口にした。優秀な姉なら、米兵の世話にならなくとも仕事はあると思ったからだ。そんな手前、数日間、懸命に走り回った。しかし、女の仕事といえば、夜の街ばかりだ。基地の仕事も炊事洗濯などメイドの仕事が多く、事務職はきわめて少ないことも知った。
 現実には、選択肢はなかったのだ。結局、もう一度、校長室に戻らざるをえなかった。校長も、そうなるとを予測していたかのように、基地勤務の紹介手続きをとってくれた。
 辺野古までゆうに一時間半はかかった。バス停まで十五分、その途中、基地のそばを通る。戦闘機の機影を見ながら、暗い道を行く。狼のうなり声と酸素ボンベの音を思い出して、小走りになった。二日目、もじもじする姿に、母が感づいてくれ、懐中電灯を手にバス停まで送ってくれた。バスの車内で、東の空が朱色に染まる。その日の出を見ながら、母は無事に家に戻ったろうかと心配した。
 電話交換手の仕事は、基地の中でも隔離された感じで、思ったほどの圧迫感は感じなかった。仕事が見つかれば、いつでも変わろう、とアルバイトのつもりである。一カ月たった。ドル札で初給料を手にした時の、感動はどう伝えたらいいだろう。初めて星条旗を正視した。夜道の恐怖感が少し和らいだかもしれない。電電公社の交換手とは比べようもない高給与だ。気持ちは基地に背いていても、ドルがもたらす豊かさにこうべを垂れざるをえない。悔しいようなうれしいような複雑な心持ちになった。
 そうやって一年が過ぎようとしていた。母に好きなものを食べさせ、ゆとりの実感も芽生えつつあった。その日は十一度目の給与日である。もらった給与でコートを買うつもりだった。部屋に入る廊下の壁際で、何人か寄って囁きあっていた。後ろからのぞき込んで、愕然とした。
 「今月限りで全員解雇」という布告が張り出されていたのだ。姉には、いつクビにされるかわからない。油断は禁物、当てにしちゃ駄目よ、と言われていたが、なんの通告もなく、一週間後には失業すると思うと、さすがにがっくりと来る。
 昼休みに姉を訪ねて聞いてみた。
 「基地の電話が全自動化されるっていうの。それでご用済みってわけ」
 「でも、ひどすぎるわ」
 「これが基地の現実。あんた、元々期待はしてなかったんでしょ」
 「姉さん、これからどうするの」
 「わたし、もうこんな沖縄はこりごり。努力したって報われない。アメリカ人だけじゃないわ。日本人もつくづく嫌になった」
 なんで、と問い返したかったが、その厳しい口調に飲まれて、黙ってしまった。姉が何を言いたかったのかも理解できなかった。二週間後、姉に基地の中庭に呼び出された。
 「わたしね。お母さんに反対されても、絶対、覆らないわよ」
 「なあに、そんなに気張って。姉さんらしくないじゃない」
 「絶対、行く。すぐ旅立つからね」
 「エエッ、どこ行くの。本土に……東京で暮らすの」
 「違う。決心したんだ。カナダに移民する。沖縄生まれは沖縄にいても、人並みの暮らしは望めない。打破するにはこれしかない」
 「英語が上手だからって、大丈夫なの」
 「わからない。でも、この沖縄では、これからの人生、目に見えている。海の向こうにはまだ夢を持てるの。あなたはどうするの?」
 自分にはそんな度胸はない。母のことも気になっていた。長女は結婚して、那覇に暮らしているが、仕事が忙しそうだった。二番目の姉も沖縄を出るとあっては、なおさらコザにとどまる以外にはない。 姉は、その言葉通りにカナダに旅立った。母はそう強く反対することもなかった。誰か約束の人でも隠しているのではないか、とそれだけを案じていたが、姉はそんな様子もなく、純粋に仕事を探して移民するのだ、と言った。(つづく)