「消えた距離感――教えられた現場の大切さ。
        どん底に見た人々の優しさ、度量、工夫」


 岩手県宮古市の北、田老の岬を訪れたのは二度目になる。
 37・9メートルの大津波が断崖を直撃、漁師に危険を知らせようと急行した消防士8人を消防車ごと飲み込んだ現場である。
 明治三陸沖地震津波(1896年)の史上最高記録に30センチと迫る遡上値は、今回の津波被災地の中で最高だったという。
 夏に訪れた時、崖下の小堀内漁港まで、タオルで汗を拭きながら下っていった。小堀内集落を訪ね歩く時も、灼熱の陽で瞬く間に日焼けした。

 みちのくは、秋の訪れが早い。ススキが横になびく時、厳しい冬は目前だ。太平洋の海風はひんやりとして、うすら寒いほどである。今、岬を訪れる人はほとんどいない。
 写真=花が捧げられた田老の岬youーtube(http://www.youtube.com/user/moritetsu007)
 南部牛追い歌がうまいサッカー好きの青年が、2人の子にサッカーボールを預けたまま逝ったと聞いた。父と息子をいっぺんに2人も奪われた家庭が、2世帯もあった。
 崖っぷちに小石を積んだ小さな祭壇がある。白い菊の花が、風にそよぐ光景は、無情である。
 まさか、展望台のような崖の上にまで津波が襲ってくるはずがない。そこに立つと、誰しも、そう思う。4月以来、東日本大震災の被災地をほぼ毎月、平均1週間単位で訪れ、取材と少しばかりの支援活動を続けている。

 まさかの風景にいくつもぶちあたる。カステラでも転がしたみたいに底面をさらけ出した同・山田町の巨大な堤防。
 500m先を歩く人が路地の角を曲がる姿を確認できる同・大槌町の惨状。町がすべて流され、焼失し、視界を妨げるものがなくなった結果だ。
 テレビで見る現場とまるで違うことを強烈に感じる。地元の人に何回となく言われた。「テレビよりすっげだろ」。その意味を考えた。
 電波を通して映像を見た時、ずっと遠い東北の一地方で起きたイメージが強かった。田舎の自らには無縁の土地の出来事。
 写真=山田港の転覆した堤防 
 最初に向かったのは、震災1ヶ月後の4月11日だった。新宿駅近くの深夜高速バスに乗って盛岡へ。駅前で始発の宮古行きに乗り換え、宮古からさらにバスで三陸沿岸を南下して山田町に向かった。
 あまりのすさまじい状況に、バスを飛び降りた。その瞬間、10時間、陸路を走ってきたその乗車時間が吹っ飛んだ。東京駅と新宿駅間ぐらいの距離感しか感じない。
そこが勘どころだ。
 わが問題として初めて迫ってくる感覚なのだ。この惨状にどう立ち向かえばいいのか、恐れ、おののき、怯えながら思い悩む。
 現場とは、かくなるものか、ということを改めて学ばされたと思う。

 ツイッターで知り合った人たちともたくさん交流した。見ず知らずの避難所スタッフの方と知り合い、被災状況や様々なヒントを教えてもらった。ツイッターでつぶやくと、地元の人からさっと反応が返る。
 阪神大震災の時と、情報やボランティア支援で決定的に違うのは、ソーシャル・ネットワークの力だ。
 各避難所で、通信・連絡関係のスタッフは、自らの置かれている状況を深夜・早朝構わず、時間があればつぶやいた。それを読んでいるだけで、動きが読みとれた。
 支援の輪が、メディア依存一本やりでなく、若者や主婦など列島中の人々から様々なアイディアが、提案され、瞬く間に、大都会と被災地をダイレクトにつないで、大きな力を発揮した。
  
官庁とメディアから独立した新しい動きは、現場でその大きさを目の当たりにする。メディアがこうした動きを後追いして報じる。
 災害が、時代を変えた、という印象さえ抱いた。
                            宮古港付近で日章旗ひとつ
 避難所で、遠慮するにもかかわらず、菓子パン、パック牛乳、ミニサラダの昼食をごちそうになった。夕立で雨宿りさせてもらった気仙沼市の和菓子屋さんでは、椅子を勧められ、缶のお茶まで戴いた。
 国道を歩いていたら、軽トラックが停まって「この先はトンネルだから乗れ」と言ってくれた。自宅を流され瓦礫処理に忙しい解体屋さんだった。
 たくさんの人にお世話になった。おまえは、なにをやったのか、と言えば、JR石巻駅近くでドブさらいを手伝った程度で、まことに恥ずかしい。これでは、立場がまるであべこべじゃないかと感じた。
 どん底の境地にありながら、周りを慮る心の優しさは一体、なんなのだろう、と感銘を受けた。
 その優しさや親切とどこかでリンクしているのだろうが、人々が最悪の状況下、常に整然と冷静に対応する姿にも打たれた。

 あれだけの 惨事に遭い、一刻の猶予もなく 逃げたのだから、もっと取り乱し、乱雑であっていいのに、そんなイメージは微塵もない。ABCのダイアン・ソーヤーが発生直後、津波被災地を訪ね、水をもらうために一糸乱れず列を作って待つ姿に驚いていたが、逆にいえば、争奪戦が世界の「常識」ともいえよう。写真=石巻市の飯野川小避難所でサンマの差し入れ
 世界の難民キャンプ、戦乱の地、インド洋津波の被災地インドネシア、スリランカ、タイなども見たけれど、混乱に陥り、八方ふさがりになっても、日本人ほど秩序を乱さず、冷静に対応できる民族は少ない、と思った。
 避難所の設営ぶりに、どんなに悲しく、絶望した中でも、みんなでアイディアを出し合って協力する姿を見た。そこから、すべてはスタートという無言の意が貫かれている。
 畳敷きの大槌の吉里吉里地区体育館。畳にガムテープを貼って通路を作ってあった。その十字路、A4コピー紙に被災者世帯が、どの方角のどの畳に仮住まいしているのか、家族名を含め数百人分、子細に表示していた。昼食の列も乱れず、各々が自然に役割をこなしあう。
 地域社会のありようを都会人に突きつけている。こんな繊細な配慮こそ、自らがどん底にあっても優しさできる度量につながっているのでは、と思った。
写真=大槌町の吉里吉里避難所。ただの雑談ではなく、避難所の運営も話題に
 「敗戦の焼け野原から驚異の復興を遂げた日本人の底力がわかる。内向きにならず、困っている状況を声高に世界にアピールしたら、とも思うけれど、暴力も略奪もなく、静かに立ち向かう姿は素晴らしい」
 友人の外国人記者はそう言った。
 絶望の中に、光を見い出すと、ほっとする。人口2万3千人中、1割の市民が犠牲になり、市街地が壊滅状態の陸前高田市。
 そこに行くと、救われる思いがする場があった。高田一中避難所下に、建設会社長ら地元の人が作った「復興の湯」。笑いが消えた町の中で、ここには笑顔があった。夕方近くになると、避難所から洗面器を手にそぞろ被災者の人たちがやってくる。
 布団以上もある大浴槽で会話が弾む。湯が熱い。風呂焚きは、全国からやってきたボランティアが受け持つ。薪は瓦礫の中から拾い集めた廃材だ。
湯上がりには、珈琲が待っている。長椅子に座って憩う。福岡からやってきた理容店主が「髪でも切ってさっぱりしたらどうね」と勧める。    写真=陸前高田の復興の湯

 日本人は、忘れやすい。東北新幹線が全線開通して、やっと首都圏に追いつけると思った瞬間、再び、歴史のハンディを背負わされた。支援はブームでは困る。タイガーマスク現象ではいけない。そんなことを肝に命じた三陸取材だった。
       ◆
 2011年11月、津波被災地の人々が悲しみの中から、明日への希望を求めて立ち上がる姿を描いた「あの人に あの歌をー三陸大津波物語」(朝日新聞出版刊)を出版いたします。