ヨハネスブルグ空港で拾った車は、ソウェト(SOWETO)に向かっている。南ア最大のタウンシップ。人種隔離政策で作られた旧黒人居住地は、犯罪多発地帯でもある。白人や観光客は踏み込まない。1日50人が殺される国というふれこみにびびりながら、助手席に座っていた。正直、怖くて仕方ない。
空港で出会ったJICA(海外青年協力隊)の青年に、「南ア駐在隊員9人のうち6人が半年間に何らかの被害に遭った」と聞いて、後悔しきりだ。何を意気がって、危険ゾーンの宿を選んだ?と責める一方で、苦しげな言い訳も聞こえる。
「イラクやアフガンだって、危険な地に生きる人
々ほど、澄んだ笑顔の心優しい人が多いじゃないか」
写真=マンデラは今も英雄
FIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップ観戦・取材のため、2010年5月末、南ア入りした日のことである。W杯閉幕から半年経った今も、記憶は瑞々しい。
最初の宿は「SOWETO BACKPACKERS」と決めていた。若者の4割が失業といわれるソウェト。仕事がなければ、犯罪に走る。宿(1泊S=2000円)は、土産物の元露天商フィリップとスウェーデン人女性マリアが、そんな若者を集めて自主運営している、とネットで知って予約したのだ。
メーンスタジアム・サッカーシティを通り過ぎた。なかなか着かない。夕暮れ時、歩いている人がいない。不気味だ。粗末な家なのに手の平もある鍵。強盗は日常茶飯事なのか。大体、「ビールは好きか?」などと気安く聞いてきた運転手だって、信用できたもんじゃない。暗鬱だ。引き返したい。
夕闇のサッカースタジアム
やがて車は、少年たちがサッカーに興じる広場の前で止まった。色鮮やかな、でっかい壁絵が飛び込んできた。アフリカの人たちが幸せそうに暮らす未来の情景を描いた図柄だ。素晴らしい。夢を感じさせる。気分がやや和らいだ。そこが宿だった。
門をくぐると、庭砂が掃き清められている。焚き火の若者が「Welcome」と手招きしてくれた。黒人男女が料理からセキュリティまで分担して働いている。翌日は、ネルソン・マンデラ元大統領の生家や電気も水道もないスラムなどを案内してくれた。面食らった。貧しくとも、穏やかに暮らす人々の日常がある。路上市場に漲る活気。
「One dream One cups One winner」の標語をいくつも見かけた。一つの夢に様々な思いが籠められている。我々が描くような贅沢な夢ではない。人間として最小限の生活を……そんな思いをこの地球最大のイベントに賭けているのだ。
ソエトバックパッカーズのオーナー夫妻
それから白人住宅街の安宿に移り、ダーバンやルステンブルグなど転々としながら、1ヶ月余、W杯を見聞した。ソウェトと同じ当惑の連続だった。日本代表の思わぬ活躍より、私には、南アの人々との触れあいこそ、驚きであり、新鮮に思えた。
ニッポンをこれほど応援してくれたW杯がかつてあったろうか。南ア人サポーターが試合のたびに増えていったのだ。ブルームフォンテーンでのカメルーン戦(6月14日)。私の周りにはいつのまにか7、8人の黒人サポーターが寄り集まった。頬に日の丸ペイント、右手にブブゼラ。前半39分、本田圭佑ゴール!乱暴に肩をたたかれ、顔をしかめるほどきつく手を握られての手荒い祝福。ブブゼラを天に突きだし大合奏。我がことのような喜びようだ。
なぜ、そんなに、と地元の法律事務所に勤めるアイザックに訊ねると、「Japan is dream」とひとこと。意外だった。南ア人の中には、日本がアジアのどこか知らず、中国大陸の一部と思いこんでいる人も多いと聞いていたからだ。
けれども、街にはTOYOTAが走り、SONYやPANASONIC製品も出回る。焼け野原から見事に復活した国の歩みと、「One dream」は重なっていたのだ。ソウェトの壁絵が思い浮かんだ。
食事はこんな感じ
ハーフタイム。0泊4日の弾丸ツアーや女子アナの南ア派遣を話題にしてみた。一様に「Why?」。理由と知ると、日本に危険なゾーンはないのかと問い返し、「憧れの国は、そんな目で我々を……」と失望さえも。その夜、日本快勝。アイザックらは、なぜか離れようとしない。私は気分最高。ブブゼラの先にくくりつけた日の丸をかざし、「ニッポン」「ホンダ」と連呼して歩くと、瞬く間に3、40人のシュプレヒコールに。宿まで来ると、手を振って
、さっと立ち去った。夜道をさりげなく送ってくれたのである。
これでも安宿
同じ帰り道、カメラを奪われた日本人のニュースが、日本で報道されたと後で聞いた。でも、わたしの小さなエピソードは、誰に知らされることもなく、今も心地よい余韻として残っている。
電気も水道もないスラム街
南アW杯の成功は、アフリカの人々の「一緒に盛り上がろう」という意識と行動があったからこそ、と強く思う。強豪国の手に委ねられた印象が強い前回独W杯と大違い。親しみを持てた。陽気でおおらかな南ア人の心温まるもてなし。多くの日本人サポーターが同じ感慨を抱いたのではないか。セキュリティは会場だけでなく、町中も万全。十字型の蛍光塗料をつけた警備員が大勢配備され、ゲストの安全確保や道案内も。ケープタウンでは1時間以上、10軒近く宿探しに歩いてくれた。
友好的な雰囲気だったカメルーン戦
プレトリアでの決勝トーナメント・パラグアイ戦(6月29日)では、黒人サポーターはさらに増えた。「日本選手のプレーはフェアだから」という人も目立った。フェアという言葉は、チクッとくる。我々は、本当にフェアな目でこの地を見ているだろうか、と。
開幕前、冷めた目でアフリカ方向を見やっておきながら、岡田ジャパンが活躍すると、手の平を返さんばかりに熱狂。それでもいいけれど、南アの中の日本代表しか見てはいない。「南アは危険、事件続出」という負の側面をメディアが集中的、かつ執拗に流し、まるで1億総思いこみ症候群。実はヨハネスは棲み分けの街。安全に歩ける所も多いのに。
陽気な市場の人々
「アフリカに救いの手を」というFIFAのコンセプトも、ズマ・南ア大統領の「アフリカは一つ」となって貧困やエイズ取り組もうという決意も、日本では、どこかに埋没したきり。内向きニッポン。そんな風に見えてならなかった。
南アに入る前、40年間、アフリカの野生動物保護に尽力されるケニアの獣医師神戸俊平さんにお会いした。アフリカ象の激減に心を悩まされていた。1980年代だけで139万頭から60万頭に半減、象牙の多くは日本へ。私たちが使う印鑑のためである。ワシントン条約で象牙取引が禁止になった今も、密猟は後を絶たない。
アフリカは遠いけれど、抱える問題は身近なのだ。
カメルーン戦のエトーと大久保
最後にもう一度、ソウェトに戻ろう。
建設労働者の父を持つフォール君(14歳)は開催中、無理を承知で父にチケット(最安値1400円)をねだった。父の所得は3300ランド(4万円)。父は、代わりに25ランド(300円)のブブゼラを買ってくれた。バファナバファナ(南ア代表)と同じイエロー。
入場できる子供は少ない
試合のたびに、それを手にスタジアムに走り、鳴らし続けた。場内がどよめくたびに、哀しくて喉に力を籠めた。見たくとも見られなかったW杯は、いつの日かに賭けた「One
d
ream」。我々には騒音にしか聞こえぬブブゼラは、そんな人々の嘆きの音色でもあったことを、忘れないでいよう、と思う。(完)
日本エッセイストクラブ会報掲載記事(2010年冬号)
「南アW杯現地に見た、人々の『One
d
ream』」