第3回「謎のクエート情報省」

 砂地に吸い込まれていく流れを見ながら、「いやあ、ここまで来るのに、苦労したなあ」という思いが切々と募ってきた。ともかくアラブ社会を見知らぬ者にとっては、まるでやりにくい。大半の人は英語は通じず、すべてはアラビア語だ。
 何が苦労したかといって、イラクの入国許可証だ。イラクはノービザだと聞いていたが、実際、国境をたずねてみると、なんとクエート情報省のpermissionが必要であることがわかった。
 情報省といえば、どの国でも、重大な国家機密、公安関連情報などを管理し、スパイ容疑者などの厳しい取り調べ、拘留などを想像、戦前の内務機関をも連想してしまう。薄気味悪いし、面倒だ。
 ホテルのマネジャーに相談すると、ビザセクション担当のZ氏が情報省に引率してくれることになった。そこでの2日間の体験もまた、実に奇妙なものだった。
 立ち小便ついでに、話がわき道にそれるけれど、そのことに触れておく。
 情報省は、日曜大工センターみたいな低層の白い建物だった。還暦すぎのレバノン人が一緒だった。長い廊下の最奥、そこのソファにレバノン人と並んで座った。Z氏は「ここで待ってろ」と言って席をはずした。
 書類を手にしたイラッキ(イラク人)が10人ほど待っていた。レバノン人は、服の会社を経営しており、オフィスがドバイにもあり、戦後のイラク市場を見込んで、ビジネスに行くという。逆に聞かれた。
 「あんたたは、何しに行くんだ?」
  「ぼくはジャーナリスト。日本の軍隊がサマワに派遣されているのは知ってますか」
  「ああ、新聞で見たよ」と言ったきり、特に関心を示すことはない。「世界の火薬庫」といわれる中東に住む人にとって、「戦後初の本格的海外派遣」などと言っても、その意味すらよく理解できないだろう。
  2時間が過ぎた。待っていた男たちはみんな帰り、入れ替わって別の男たちが待っている。雑談にも飽きた。レバノン人はロビーに何度も行って、煙草を吸った。大体、今朝、Z氏から「これが、新しいビザだ」と言って渡されたA4大の書類1枚をもらっただけで、それすら相手方に提出していない。それで入国許可証がもらえるのか、雲をつかむような心境である。
  退屈してやることがない。持参した場面別英会話集を参考に、「なぜ、お前はイラクに行くのか」などと尋問された時に備えて、想定問答集の「答え」をノートに書き連ねた。10時に着いて、午後2時になろうとしている。
  大体、役所の業務がどこで行われているのか、それすらわからない。部屋が無数にある。全部、アラビア語で書かれ、その文字は雨にでも濡れ滴った、お化け文字のようにしか見えない。今度は、英会話集の巻末にある英単語を書き出して勉強を始めた。「あ」行から順番に、「あいまいな=obscure」「空きの=vacant」という具合に知らない単語を拾っていった。
 6、7人の群れが行き止まりのドアの前に殺到して、なにやら頼み込んでいる。レバノン人実業家氏があわてて語りかけると、「こっちに入れ」と通され、ソファがある部屋に入った。そこでもまた何1つ提出せず、語りかけられもしない。
  責任者の机には、IBMのデスクトップがある。その背面に「NO SMOKING」のラベル。役人たちは、おかまいなく煙草をふかしながら、何かを打ちこんでいる。3時半を過ぎた。レバノン人の方は午後、役人が書類を預かって立ち去っていた。午後3時半を過ぎた。役人が餅を1個振る舞ってくれた。レバノン人が役人に促され、「収入印紙だ」と叫ぶながら、あわてて表に飛び出していった。
  一緒について玄関まで行くと、ばったりZ氏とかち合った。「終わったか」とたずねられ、「冗談じゃない。6時間前と何も変わらない」と答えたかったが、言葉にならず、「NO」。実業家氏がタンクみたいな丸っこいからだを揺らして戻ってきた。
写真は、イラク入国後、国道で見かけた定・フセインの看板

  印紙2枚で3クエートディナール分をパスポートの白地部分に貼った。それを係官に持参すると、朱色のスタンプが押され、それが、入国許可証だった。
  「あれえ、おれの分は?」とたずねる前に、Z氏が言った。
  「明日も来なきゃ駄目だ。その前にクエート商工会議所にも行くんだ」
  なぜ、商工会議所に行くのかさっぱりわからない。
  翌日、Z氏と商工会議所に向かった。窓口で彼が書き込んだ書類を提出する時だけ、顔見せした。窓口の男性に立ち上がって、「welcome」と握手され、書類にスタンプを押してもらい、車で情報省に向かった。Z氏が言う。
  「あんたはジャーナリストではなく、実業家だから、もし問われたらそう言え」 {えっ、なんで?」と聞き返したが、返答はない。「じゃあ、何のビジネス?」と聞くと、「managerだ」という。いつのいまにか経営者にされたのだ。
 そこでまた、あわてて想定問答集を作り、情報省で聞かれたら、「おもちゃの輸出入業だ。イラクの子供たちに、これから必要だから」と答えることにしたが、マネジャーに変身したのは、その後、思わぬ収穫をたくさんもたらした。
  前日の部屋に直行した。この日はパスポートとビザ、商工会議所でもらった書類の3部を提出して待った。入口で収入印紙も買って、パスポートの白地部分にも貼りつけた。Z氏はまた「すぐ戻るから」と姿を消した。同じソファで英単語学習を始めた。今日は司馬遼太郎氏の「この国のかたち(一)」を持参している。
   情報省の男たちの動きを見ていると、奇っ怪である。机の上に電話があるのに、みんな携帯電話しか使わない。机に書類の一枚も置いてない。ほとんどすべての机がそうだった。6、7人男たちがいるけれど、笑いながら雑談しているばかりで、業務の進行状態がまったくわからない。
  時々、給仕がお盆でチャイ(リプトンの紅茶)を運んでくる。役人だけでなく、申請待ちの3人にも振る舞われる。これも首を傾げてしまう。
 TシャツにGパンの若い長身の役人がいる。その彼だけが忙しそうに動いている。Z氏もGパンだ。2人は携帯でやりとりしていることが、なんとなくわかった。Z氏は姿を消して、自分の車の中からでも連絡しているらしい。しかし、何のために……。
 1時間半ほど経って、Z氏が戻ってきた。「終わったか」と聞く。否定すると、隣に座った。役人がZ氏にたずねている。
  「あの日本人は、前日からしきりに、何か書いている。何をやっているんだ?」
  Z氏に問い返され、まさか英単語の勉強とは言えないので、
  「Chinese and english study」と答えた。それっきりだった。今度はオレンジジュースが振る舞われた。Z氏がGパン氏にしきりに催促している。30分ほど経つと、赤いパスポートが戻ってきた。
 IBMのパソコンになにやら打ち込んで、またどっかに持ち去られた。また1時間が経った。チャイもまた出された。たまたま、司馬遼太郎氏の「この国のかたち(一)を手にとって読んでいると、面白い記述があった。
  「日本人は、遣隋使の儒教伝来以来、思想は外から入ってくると思っている。しかも、それは書として入り、すなわち学問として入り、民衆を飼い慣らす能力をもつ普遍的思想(キリスト教、回教なども)として展開することはなかった。民衆個々を骨の髄まで思想化してしまう作用を持たなかった。思想とは本来、血肉となって社会化されるべきものである。日本にあっては、それは好まれないのだろう。そのくせ、思想にあこがれ、思想書を読むのが好きなのである。こういう奇妙な民族が、もし地球上に存在するなら、ぜひたずねて行って、そのありようを知りたい」
  そんな趣旨である。今、わたしがたずねている先は、その逆である。目の前で動いている人たちは、血肉となった思想をもとに動いている。情報省の大ロビーにも、えらく広いスペースをとって絨毯が敷かれ、業務の途中、役人も申請者もみんな来て、祈りを捧げている。
  どこで何がどう進んでいるのかまるでわからないし、こんなに長時間、なんで待つのかもわからない。お茶を振る舞われるのも不思議だ。しかし、それは我々にとって摩訶不思議でも、彼らにとっては常識なのだろう。その源に、それを支える思想があると思うと、妙な所で妙なことを学んだものだと、おかしくなった。
  いつのまにかZ氏が我がパスポートを手にしていた。そこにレバノン人実業家と同じスタンプが押してある。
  「State of kuwait ministry of interior。general department of immigration」とある。内務省入国管理局のスタンプである。ここは情報省のはずだが、どうなっているのか。ともかく、「やったあ」と絶叫したいほどうれしかった。
  「明日にもイラクに行けるよ。good businessを期待しているさ」
  Z氏は笑った。ジャーナリストであることなど知っているのに。役人たちに隠して申請した感じでもない。どうも、向こうもジャーナリストと周知しているようなのだ。
 結局、2日間で聞かれたことと言えば、英単語の勉強のことだけで、あとは座り込んでいるだけで、天下の情報省から入国許可証をもらった。これが、摩訶不思議な体験、と言わずして、何と言おう。
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