第8回「血塗られたシーア派の聖地」
3日朝は6時に起きたというよりも、ほとんど眠れなかった。130人以上も死亡したテロ現場に行く恐怖感ーー聖地に第2弾のテロが仕掛けられる可能性ーーは、誰にもわからないのだ。
寝そびれた原因は、もう1つあった。ホテルには、26歳になるアリと、18になるエブラッハムという2人の雑益係のスタッフがいる。彼らが仕事が終わると、こっそりと我が部屋に遊びにくるのだ。1日夜も来たのだが、マネジャーか誰かに階下から呼ばれて、怒られたらしい。
もちろん言葉は通じない。ほとんど身振りだ。ただ、この夜は違った。アリが黒ポリ袋から瓶を取りだしたのだ。ウイスキーボトルである。前夜、我が晩酌の時に来て、酒が好きだということ、バーレーンからこっそりクエートに運び込み、イラクまでキッコーマン醤油と、トマトジュースの瓶に詰め替えた安物ウイスキーが、そろそろ底をつきかけていているのを見ていたのだ。
ベッドの端に座り込んだエブラッハムが電卓を手に取った。必然的に「いくらだよ」とたずねた。「100」とたたいた。100usjだ。
「高い。そんな高価な酒はいいよ」
鼻先で手を振ると、アリと相談して「70」と今度は打ち込んだ。それでも、返事はしなかった。いつまでイラクにいるのか、とか話しかけてきて、なかなか立ち去ろうとしない。こちらは昼間、動き回ってくたびれて、眠くて仕方ない。
「あした、バグダッドに行くんだ。朝早いから寝ようよ」と言うと、ごめん、ごめんと出ていったものの、今度は目が冴えて、眠れなくなってしまった。
ドライバーは約束通りの時間に、乗用車がやってきた。夜は明けておらず、あたりは暗い。サマワから一路、一般国道を北へ直進した。カルバラまで200数十`の道のりだ。
空が白みはじめたころ、緑の旗をかざしてカルバラをめざすシーア派の巡礼者を早くも見かけた。車の屋根にこぼれんばかりの荷物を積んだマイクロバスを、何台も追い抜いた。これも巡礼者だ。車体をぴかぴかに磨いた大型バスは、イランからやってきた巡礼者だという。イランはシーア派の最大拠点である。
「アシュラ」と呼ばれるこの宗教行事は、フセイン政権下、禁じられていたが、今年、30年ぶりに復活した。シーア派第3代の指導者で、預言者マホメットの孫、イマーム・フサインが、ウマイヤ王朝軍(後にスンニ派の流れとなる)によって680年3月1日(イスラム暦1月10日)、カルバラで虐殺されたことをいたむ祭礼といわれる。
東の空から日が昇り始めた。羊飼いが30頭前後の群を引き連れて、原野を歩いている。そのシルエットが美しい。ほぼ2時間半で、diwaniyah(ディワニヤ)、hillah(ヒッラ)の街を通り過ぎた。まもなくバビロンの遺跡で知られるbabylonに差しかかる。
巡礼者の車がどっと増えた。ここからカルバラまで一本道である。反対車線には、寝具や雑貨を積んだ車が列をなしている。前日のテロで避難しようとしているのか。いや、それなら、今朝、こんなに巡礼に向かう車はないはずだ。
凄惨な事件はあっても、その身体と心を貫き通すイスラムの思想は、とりわけ殉教の精神が強いとされるシーアの人々は、まさに立ち向かわんばかりに、カルバラをめざしているのかもしれない。
午前8時半すぎ、車はカルバラの町中に入った。地図を広げて顔を隠すようにした。前日のテロに対して、支配者となった米英人だけでなく、外国人に対し、強い憤りの声が上がっていると聞いた。しかし、まるっきり隠しているわけではないから、車の外から歩く人にとっては、ジャパニーの姿は確認できる。
町中は、イランを含む近隣各国からの巡礼者たちで大混雑 |
運転者が駐車場を探して、車を停め、我々は降りた。ものすごい人波である。週末の新宿駅周辺を連想するほど混雑している。期間中、200万人の信者が集まると聞いた。通りを左折すると、大通りの正面に、金色の輝くドーム状のモスクが見えた。我々は、そちらをめざした。
事件の詳しい状況はまだ知らない。ともかく 2日午前10時(時差は6時間。日本時間午後4時)、カルバラとバグダッドで10回近い同時爆発があり、死者はカルバラだけで100人を上回ったという程度しか知らない。イラク戦争後のテロとしては、2月1日に北部アルビルのクルド人政党事務所で自爆テロが発生、101人が死亡した事件を上回る惨事という。
《7カ所で自爆》
案内役の1人が加わった。24、5歳の若者だ。モスクには、イマーム・フサインが埋葬されている。旗をかざし、2、30人連れで大声で歌をうたいながら、あるグループは胸をたたきながら、またあるグループは輪なりになって、お経を唱えている。人々の熱気で圧倒されるてしまう。
人垣をかき分け、黄金色のドームを左側に見つつ、その裏手に回った。
「爆弾は7か所で起きた。大半がホテルの中だったり、その玄関先だ」
最初の現場は、通りが交差する角に立つホテルだった。「UMMAL KURA HOTEL」と緑色の看板がある。正面玄関に向かって、右の角に人だかりがしていた。
「ここで爆発したんだ」とある人が指さした。
その壁を見て、息をのんだ。若き時代のサダム・フセインの写真入りポスターに、血沫が飛んでいる。白いレンガ壁にべっとりと血痕がこびりついている。動けなかった。今のイラクの血なまぐさい現実を、いかにも象徴しているように感じられた。足元にあった調理道具も椅子も机も、鉄枠はねじ曲がって形を失っていた。
そこから路地を100数十b歩くと、再び、角地にホテルがあった。玄関前に車が停められるスペースがある。玄関はフロントガラスが全面に張られ、真ん中に玄関があったという。それが見る影もなく、破壊され、かろうじて玄関の鉄骨だけがむき出しになって残った。粉々になって散ったガラスの破片を観察すると、血痕がにじんでいる。
一体、どんな状況で爆発が起きたのか、想像しただけでも空恐ろしくなる。2日は、アシュラの最高の日であり、最も人出が激しい時である。しかも昼間だから、なおさらだ。実際に、今も肩が触れ合うほどのにぎわいだ。そこで爆発物が破裂したら、数十bの範囲で、死傷者が出るだろう。
人々があちこちの壁を指さした。そこに血痕がこびりついているのだ。吹き飛ばされて、壁にたたきつけられ、即死した残虐な跡である。
見知らぬ外国人に対して、奇異な視線を送る人もかなりいた。
「視線を合わせるな。うつむいた方がいい」
案内役は言った。カメラは数枚のシャッターを押した後は、バッグに閉まって、周りを刺激しないようにした。それでもガラスの破片を撮影していたら、「向こうに行け」とホテルのスタッフが怒鳴った。
カルバラはバグダッドからの方が近い。しかし、発生直後からこの同時テロの一因が、米英をはじめとする外国人にも責任がある、という声があがり、西洋人ジャーナリストも入りにくかったらしい。
イラクの人たちは、しかし、日本人に対してはたいそう友好的だ。サモワに自衛隊が派遣されたからではない。1970、80年代、日本の投資でイラクのインフラ、公共施設が随分、整備された。そのことはみんな知っている。笑顔をふりまいて「ジャパニー、ジャパニー」となついてくるのだが、さすがにこの現場では、そんな人はいなかった。
第3の現場は第2の現場のほぼ筋向かいだった。ここもホテルだ。しかもホテル上階の部屋の中で、自爆したという。4階建てビルの壁に、筆で塗りつけたように血痕が飛んでいた。窓ガラスがすべて吹き飛び、鉄骨もねじれている。
第4の現場がもっとも凄惨だった。このホテルも玄関わきで爆発があったといった。内部は一階にロビーとレストランが併設されていたが、椅子はすべて積み上げられ、フロントがどこにあったかもわからぬほどだ。
爆発物が置いてあったところには木くずやガラス片がたまっていたが、ホテル関係者が「これを見よ」と棒きれで、それらのゴミを押しよけた。コンクリート片に赤い塊がもっこりとある。
「ここで自爆したんだ。こいつのからだは吹っ飛んで、残ったのは、脳だよ。頭蓋骨も跡形もないが、これがかけらだ」
自らの頭部を指さしながら説明した。説明を受けなければわからないが、受けた途端、吐き気を催す状況だ。自爆とは、こんなものなのか。これほどすさまじく、残酷なものなのか、強烈な反感が沸き上がった。
ホテルの関係者が、その後、箒を持ち出して掃除を始めた時、案内役やドライバーが袖を引っ張った。早く立ち去ろうというのだ。警官なのか、それともシーア派の関係者がやってきたのか、再びカメラを隠して、逃げるように立ち去ったのだった。
表通りに出ると、変わらぬ人出である。あんなに残虐な事件があったとは思えないほど、それは普段通りの表情を見せてにぎわっている。日本でなら、考えられないことだろう。いわゆる喪に服す、という意味で、人出は半減するのではないか。しかし、シーア派の人々は、だからこそ、神に祈りを捧げるのか、わめくような大声を出して、道路をかっ歩していくのだった。
はちまきをして、長さ1b近い鉄鎖を腕にまきつけて、それで左右の肩口を交互にたたきながら、練り歩く。殉教者イマーム・フサインが殺された時の痛みをわかちあおうという気持ちを表れだという。
「サダム・フセイン」がその行列を無表情に眺めていた。道路には即席の両替屋がある。そのスタンドの前面に、サダム・フセインの今は使われていないお札が張り出されていたのだった。サダムはこのアシュラの行事を禁止した。シーアの人々は、その復活を喜んだが、それもつかの間、深い悲しみに突き落とされたのだった。
駐車場に着いた。案内役とは途中で、無造作にあいさつもなく別れ、彼は路地の奥に消えた。彼がどこの誰かもわからない。この人たちもシーアを信仰する人たちだ。巡礼の予定はあったのか、と聞くと、ないという。
すべての人が行くわけではなく、格別の願い事や、その1年間に家族にとって幸不幸なにか起きた時に、よく出かけると言った。その心は、日本人の参拝と同じものである。