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イラク・ルポルタージュ

  ここに記したルポルタージュは、イラク戦争直後、米軍占領下にあるイラク・サマワやバグダッドの現実を単身取材して、執筆したものである。イラク情勢はいま、最悪の状態だが、米軍による統治が決してスムーズにはいかぬだろう、ということは、2004年3月のこの時点で痛感したことだった。以下、ルポの一端を披瀝し、泥沼化したイラク問題を考える一助としたい。

第7回「病院を包む怒りと悲しみ」

 その後、アラビア語の即席地図をフセインに見せて、サマワ総合病院に向かった。ここはサマワ最大の病院だ。放射能のこともすべてわかる。休日だから当直態勢かと思っていたが、玄関わきに白衣の医師たちや警官が何人も立って、ざわめいている。
 何かあったのか、と病院内をのぞくと、薄暗い中、簡易ベッドに横たわった男を囲んで、7、8人がぼそぼそ立ち話ししている。
 病棟を離れて、周囲の写真を撮っていた。平屋建ての白い小さな建物の前に、黒塗りの木箱があった。その形状からすると、棺桶のようでもある。車が1台停まっており、イラク人数人が声を潜めて雑談していた。
 建物の中をのぞいたが、各部屋とも閉めきられている。と、病棟から白衣の男性が数人やってきた。英語で、何か用かと問われ、わたしは日本のジャーナリストだ、と答えると、「彼は米兵に撃たれて死んだ」という。
 その言葉に、はっとなった。事件が起きたのだ。しかし、何が起きたのか知らない。ざわつきは、そのせいだったのだ。よく飲み込めない顔をしていると、医者が奥に手を引っ張って、ドアを開けた。鉄製の手術台に、男が1人横たわっていた。
 「昨夜だ。彼は単にスピードを出しただけで、Amerikan armyに銃殺されたんだ。あと1人も、重傷を負って入院している」
 その映像は忘れられない。額から右耳、あごにかけて赤黒い血痕がこびりついていた。。すすり泣く声が聞こえた。奥さんだろうか、黒服で立ち尽くし、奥の壁に額を寄せ、今にも崩れ落ちそうにもたれかかっていた。
 腹部には、金色のカバーがかけられていた。医師はそれを取って、腹部を見ろという。 「この銃弾は、国際法で人権的に禁じられている。なぜ、彼らはそんな弾丸を使うんだ。これで多くのイラキ(イラク人)が亡くなっている。こんな様だ。ひどい損傷を受けて、内臓は跡形もない」
 口から発せられる言葉は静かだが、その心は怒りに満ちあふれていることが伝わる。遺族らが棺を運び込んだ。遺体が納められた。花の1本もない。家族の数も少ない。無言で男4人が棺を抱えて、停めてあった車の屋根に積みこまれると、車は走り去った。
 それから医師は、別室の椅子に座るよう促した。話の内容からすると、一番恐れていた米兵の誤射が起きたのだ。イラク取材では、何が怖いって、アメリカ兵の銃が一番恐ろしい。だから、即席日の丸を作って、フロントガラスにかざしたのだ。
 米軍ジープの窓から突き出されている銃口は、すべて平行に、そのまま横を通り過ぎる我々の頭部に向けられているのである。危険を感じたら、彼らはなんのためらいもなく引き金を引く。その弾丸はいつも「正義」である。妙に接近したりすれば、自爆だ、と勘違いされ、正当防衛の名のもとに、小銃から無数の弾丸が発射されるだろう。
 一方は、どんな局面でも「正義」であり、他方は、誰であっても、「凶弾」であり、「テロ行為」とされる。勝者と敗者、とはいえ、いかにも理不尽である。
 国際法に違反している弾丸を見せてほしい、と頼みこんだ。医師はためらった。しかし、2度3度と頼んだ。

国際法違反の弾丸は許せるのか
 「絶対に名前を伏せてほしい」と語った。「of course。im promise」とつたない英語を繰り返した。医師が1人に指示した。
 藁半紙の小さな包みから、黄銅色の3片の金属が出てきた。紙が血でにじんで薄紅色に染まっている。国際法上、弾丸の形状、また変形したりするものは、非人道的で、残酷な結果をもたらすとして、対人使用は禁じられているはずだ。鉛などもそうだったと思う。
 医師が口すっぱく指摘しているのは、この点らしい。「国際法違反だ」と少なくとも8度は繰り返した。その言葉の裏に、彼らは「国際正義を持ち出しているが、ひと皮むけば、この弾丸のように、理不尽さが見えるではないか」と訴えているようだった。
 カメラに弾丸を収めた。そうであってはいけないと思うけれど、吐き気を催したくなる。紙切れにこびりついたその血痕はまだ、生暖かくさえ感じるのだった。

 その後、もう一度、ホテルに戻った。ロビーのテレビを囲んで、スタッフたちがざわめいている。また何か事件が起きたのか、たずねると、karbala(カルバラ)という街で爆弾が爆発して、30数人が死亡したと言った。テロなのか。カルバラは、イスラム教シーア派の聖地として知られる所である。
 サマワ周辺の道路を通ると、緑色の旗をかざして、5、6人連れの人たちが西の方をめざして歩いている。その姿があまりに多いから、大変目立つ。彼らは3日も4日も歩き続けて、カルバラに巡礼に行く。もし、そこでテロが起きたなら大惨事だ、と思いつつ、フセインを伴って、再び外出した。この日の予定行動をこなさなければならない。
 次は、サマワで最も高いテレビ塔に行った。6、70bの鉛筆のようなタワーだ。入口に検問があった。フセインがひとことしゃべって、すぐに通された。イラクの人たちは取材に協力的である。独裁者のもとで何十年も過ごしたとは思えないほど、開放的だ。
 事務室に通されると、テレビの前に6、7人がクギづけになっていた。カルバラの事件を見入っていたのだ。死者は100人を超えると言った。サマワから200`ほどしか離れていない。危険はまさに、透明人間みたいで見極めがつかない、と思うと、サマワの空気もまた不気味に感じるのだった。
 子供墓地に向かった。バスラやサマワは、湾岸戦争の劣化ウラン弾によって、高放射能汚染地帯に指定されている。いつの時代も、戦争の被害者は、特に空爆による被害者は、子供が多い。墓地には、放射能汚染で亡くなったり、爆撃で死んだり、病死した子供たちらが埋葬されているという。
 フセインが車を飛ばした。バスラの方向に向かっている。一本道から50メートルほど奥まった原野の一角に、モスクがあった。ドーム状だから、すぐにわかる。フセインが車が止めた。
 「ここだよ」とフセインは指さすけれど、降りようとはしない。一見すると、ゴミ捨て場にしか思えない。黒ポリエチレンの端切れが時折、風になびく。近づいてみた。それが墓だなどと信じられないし、信じたくもない。
   しかし、墓なのだ。色塗りのコンクリート形の墓もあるが、大半は、土饅頭みたいに、土をこんもりと盛り上げただけだ。木札も2、3見かけるが、ほとんどない。土中から、黒いポリ袋の端切れがのぞいている。ポリ袋に包んでそのまま埋葬したのだろう。
 中には通路も何もない。踏み込むと、土が軟らかい。ばちがあたる気がして、あわてて飛び出した。モスクから老人が出てきた。なにやらアラビア語で熱心に話しかけてくれるが、意味が通じない。ひきずっている足元を見ると、サンダルを片方しか履いていなかった。慌てて出てきた様子もなかったので、片方しか持っていないのだろうか。
 独裁者の元で貧しい暮らしを強いられ、国際制裁という我々を含めた外からの締めつけで、さらに辛い思いをして生きてきた人たちである。その人々は、死後もなお、極貧のまま天国にいるのだろうか、そんな思いにかられ、胸苦しくなった。

殺伐とした荒野に点々と子供たちのお墓が
 イラクの子供たちは、実に朗らかだ。カメラを向けると、みんな「ぼくも撮って、ぼくも撮って」と言い寄ってくる。最初は2、3人であっても、5分もたたぬうちに、10数人に膨れあがる。言われるまま、撮っていると、際限がない。そのうち大人たちも、おれも、おれもと寄ってくる。
 ここに埋葬された子供たちはきっと、遺影の1枚もなく、天に昇ったのだろう。イラクの人たちは毎日、何十回とあいさつする。
 「サラーム ワァレッカム」(やあやあ、貴方にもよき天国を)
 どこにそれがあるんだ、と叫びたくなるほど、悔しい思いを胸に、フセインの車に戻ったのだった。
 ホテルに戻ると、テロのニュースがさらにはっきりとわかった。カルバラとバグダッドで同時テロが起き、死者は少なくとも130人はくだらないという。しかもカルバラの方が圧倒的に多いという。誰が、聖地に爆弾を仕掛けたのだろうか。それは自爆なのか、詳しいことはわからない。
 決断の時だ。サディらに、カルバラに詳しい人、向こうに知り合いがいる人を探してもらった。3日午前6時、出発時間だけが決まった。第二の惨劇が待ち受けているかもしれない。しかし、2発目はない、と無鉄砲な思いこみに、己れを賭けてみた。(つづく)



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