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イラク・ルポルタージュ

  ここに記したルポルタージュは、イラク戦争直後、米軍占領下にあるイラク・サマワやバグダッドの現実を単身取材して、執筆したものである。イラク情勢はいま、最悪の状態だが、米軍による統治が決してスムーズにはいかぬだろう、ということは、2004年3月のこの時点で痛感したことだった。以下、ルポの一端を披瀝し、泥沼化したイラク問題を考える一助としたい。

第12回「酒を求めてバグダッドへ」

 イラクは今、急速に動いている。軍事やテロのことではない。戦争が終わり、経済の国際制裁が解かれたので、物資がものすごい勢いで入り込んできているのだ。サマワの人たちの様子を見ても、これが一番うれしいようだ。自衛隊の平和的貢献など、彼らの心の片隅にもないようだけど、それは後で書く。
 我がホテルの冷蔵庫も、こないだ滞在した時の数倍の食品が納まっていた。近くのスーパーに出かけた。食品店そのものが増えている感じだ。天井近くまで商品が山積みされ、連日、じゃんじゃん流れ込んできていることがよくわかる。
 トルコのチョコレート、シャンプー、電球。ブラジルのインスタント・コーヒー。エジプトのチーズ。イランのビスケットケーキ。サウジアラビアのトマトケチャップ、モロッコのいわしの缶詰。タバコはUSA、英国、韓国など。ドル札を象ったチョコレートがあったので、どこのだろうと思ったら、中国産だった。
 失業率が高くて、そんなに購入するお金はないだろうけど、全然売れないわけではない。家に持ち帰ったチョコレートやガム、チーズに、おかみさんの頬が緩み、子供たちがはしゃぐと思うと、米英占領の態勢うんぬんは別にして、イラクにも着実に平和がやってきているんだ、といいうことを実感して、うれしくなる。
 しかし、どんなに町中を歩いても、見当たらない物がある。アルコールだ。酒の売買の話をすると、彼らは右手を首に当てて切るジェスチャはする。それを承知で、チェックインした時から頼んでいるが、めちゃくちゃ高いうえに、持参した酒は、密造酒のどぶろく風で、それも50ドルなどと、タクシードライバーのフセインにふっかけられた。
 バグダッドに行く用があった。というより、バグダッドの状況も把握しなければならぬ、という建前で、ドライバーのタリックと早朝に出かけた。いくつかこの名高い首都で、チェックしておきたい所があったのだ。しかし、腹の底では、目的は1つ。それを言うと拒絶されるから言えない。
 バグダッド市内の渋滞はすさまじい。車の隙間を横切って、大の男たちがティッシュペーパーの箱を5、6箱抱えて売り歩いている。1個売っていくらの手数料になるのか、と思うと、失業の深刻さが伝わってくるようだ。
 最初にたずねた所は、バグダッド・セントラル・ステーションだ。国道に立て看があった。「process IRAQ prosperity」。イラクの繁栄に向けて、というのでもあろうか。駅はチグリス川の東岸2`、市のど真ん中に位置し、ここから国内に鉄道網が伸びている。重要施設はすべて米軍が警備しているが、ここはそうでもないのか、5、6人の米兵しか見当たらず、構内にも自由に入れた。
 ターミナル駅にしては珍しい。プラットホームは行き止まりになって、すべてのレールは北に伸びて、南方面はない。10`ほど北で南に旋回するらしい。駅長室の周辺はすごい人だかりだ。列車は客車も貨物も動いていない。なぜだろうとたずねてみると、元駅員や機関士、車掌らが早く仕事を再開して欲しい連日押し掛けているのだという。
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線路に一両だけ機関車が

 ホームにはグリーンの機関車が4、5両停まっており、そのうち1台が目的もなく動いているように見えた。キップ売り場も、待合室も机1つどころか、紙切れの1枚もない。ほこりにまみれて、廃墟化した駅は、寂しい限りだ。向かい側にミニバスステーションがあった。国内各地への移動はバスに頼っているようだ。
 イラク博物館に行った。戦後、略奪に遭ったと報道されたが、貴重な文化財の大半は、地下の倉庫から出てきたという外電を数日前に読んだので訪ねてみたが、入館できはしたが、陳列室らしき部屋はみんな事務室代わりにされていた。
 責任者の1人は「あんた、見に来るのはまだ早い。半年後は大丈夫だから、その時に」と気の長い話をされ、館長に会っていくか、と勧められたが、我が英語力ではインチキ野郎と疑われかねないので、あわてて逃げて来た。
 その後、各国の記者が滞在し、国際的記者クラブ状態にあるパレスチナ・ホテルに行った。ロケット弾をぶちこまれて、ロイターの記者が死んだホテルでもある。
 ホテルの外壁は、海の堤防でも固めるようなテトラポット風コンクリート塊を起き、鉄条網をぐるぐる巻きにして、えらく離れた一角から入場するようになっている。もちろんボディもバッグもチェックは二度のわたる警戒ぶりだ。
 ロビーをうろついてバーを探したけれど、見当たらない。コーヒーラウンジがあったので、ハンバーガーとペプシを頼んだけれど、20分経っても、ペプシも持ってこなかったので、頭にきて黙って出てきた。
 大統領宮殿や無名戦士の墓など、その後、いくつかたずねたけれど、全部、米軍が抑えて、姿形すら見られなかった。タリックが、どうするか、と言うので、手元の重要メモを見せた。
 「I want to buy whisky and beer」と書いてある。その下に、アラブ語の表記がある。さきほど博物館で応対してくれた人に、アラブ語で書いてくてるよう頼んで、変な顔をされたが、タリックは怒ったような顔になった。
 「ぼくはシーアだ。そんなことはできない」と言う。
「ちょっと待て。オレも半端じゃないんだ。酒もなくて原稿が書けるか」
思わず日本語でまくした。このままだと、サマワに強制的に帰られてしまうと思い、車を飛び出し、すぐ目の前にあったチキン・レストランに飛び込んで、そのメモを見せた。br>  ツキは失われていない。酒の密売所が近くにあるという。嫌がるタリックを呼びつけて、そのありかを聞かせ、早速走った。タバコ屋の裏側の小屋に、たくさん酒があった。
   それを見た瞬間、目からうろこだ。高えだろうな、とジョニ黒の価格を聞くと、25ドル。バレンタイン8ドル。我が耳を疑ったけれど、間違いなし。ジョニ黒1本に、18g、37g小瓶3本、デンマーク産ビール、カールスバーグ1箱(20本入り)を抱えて、勇躍、サマワ凱旋となった。
 占領軍は腹が立つ。本当に我が者顔だが、怖いからさからえない。チグリス河畔の国道に、アメリカ軍の長い車列が停車していた。反対車線3車線は空いているのに、通行どめにしている。そのせいで、河川敷のでこぼこ道をイラッキの車は2キロも、3キロも列をなしてのろのろ運転を強いられる。
 イラッキでなくとも、「このヤロー」と思いたくなる。この日はそんな個所がいくつもあった。早めにサマワにつこうと思ったのに、時間を食ってしまった。原油運搬のタンクローリーもラッシュ状況だ。油関係の車は、必ず米軍の軍用車が先導している。街のスーパーでは、米国産品はタバコやペプシなどであまり見かけないが、こんなところにも、ホワイトハウスのイラク戦争への思惑が見え隠れしている感じだ。
 サマワまで100`、ディワニーヤの街を過ぎたあたりから、夕焼けが広がりだした。地平線の彼方に、大きな夕陽が沈んでいく。カメラのシャッターを切り続けていると、いつもは気をきかせて、スピードを落とすタリックが、速度を30`も上げて、170`で飛ばしだした。
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戦乱の地とは思えぬ美しい夕日

 なぜだ、と問うと、「アリババ、アリババ」と繰り返す。アリババとは強盗とか泥棒の意味だ。腕時計を見せて、「午後6時を過ぎると、拳銃強盗が出るから急ぐんだ」という。それから我が足元の袋を指さし、
 「あんた、それ取られていいのか。命と同じに大切なんだろう」
 と笑うのである。スピードは大嫌いで、120`ー140`までと指示しているが、バグダッドに行くことだって、ある意味では命を賭けているのだ。そんな命がけのウイスキーを取られたんではたまらないので、スピード違反を許してしまったのだった。
 ホテルに着いた後、その夜の晩酌のうまかったっこと。何日ぶりの酒だ、と数えてみたら、たった2日ぶりだった。


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