第3回「ディスカバー JAPAN」

 ヤンゴンはバスが楽しい。ホテル近くの十字路に座って、車の流れをぼんやり見つめた。目の前をヴァイオレットラインも鮮やかな会津バスが通り過ぎ、続いて青とクリーム色のJRバスが行き、あっち側から黄銅色の東武バスが来て、神奈川中央バスや京成バスがその直後に続き、牡鹿半島レンタカーと車体の後部に大書した大型バスもいる。
 どのバスにも出口、入口、ワンマン、市営など日本語がそのまま残っている。ビルマ語で細長く文字が書かれているが、我々には流線模様のデザインのように映ってしまう。横溝工務店や日立建機のタクシーも見た。
 ああ、懐かしや、あれは我が最初の愛車ニッサンブルーバードではないか。その次に乗り回したニッサンサニーもいれば、トヨペットもトヨタスプリンター、コロナもみんな元気に走っている。
 1950、60年代を知る者にとっては、タイムスリップしたようにノスタルジックだ。バイクが禁じられているから、車がやたらと多い。韓国のお下がりを除くと、9割5分は日本車で、クラシックカーの路上見本市を見せられているようなものなのだ。
 
日本車の見本市?東武バスは、特に多い。
ホテルのマネジャーピンさんの車も、白のカローラだ。それに乗せてもらって、バングラデシュ大使館まで送ってもらった。
 ピンさんは日本で10年間、市ヶ谷の串カツ屋で働き、奥さんも日本人だという。4年前にミャンマーに帰り、兄夫婦と一緒にゲストハウスを経営している。日本人にはヤンゴンで最も親しまれているゲストハウスらしい。
 ちなみにピンは、東京時代の名前とか。何を聞かれてもひひひ、と笑っていたことから、ヒヒとか呼ばれていたらしいが、どうも響きが悪いということと、ギャンブル好きなことから、師匠が、縁起がいいピン(1)と名付けてくれた。
 本名はミャマオさんという。ミャンマーでは戦前は英国式に苗字もあったが、軍政権下で名前ひとつになったという。名前だけでは家族かどうか区別がつかないらしい。
 ピンさんに「東京のどこですか」と聞かれて「府中の近く」と答えると、「へえ、じゃあ、東京競馬場のそばですか」という。そこでデジタルカメラを取りだして、ダービーの時に撮影したパドックの写真を見せると、「懐かしいなあ。府中のパドックじゃないですか」と驚いたような声をだした。
 驚いたのはこっちの方である。このひとコマを見て、府中とわかる者など、日本にだってそうはいない。
 「先生が2人いました。競馬新聞の見方を教えてもらって、府中も中山も休みにはよく通ったものです」というピンさんは、穴狙いの馬券師らしい。逃げ馬に乗っては、大穴を出す大西騎手をよく狙ったようで、5万円クラスの万馬券も何度か仕留めたという。
 サニーブライアン、グラスワンダー、的場、武豊ら一流の人馬の名前が次々飛び出す。窓の外を見ると、日本の車ばかりで、妙な感覚に陥ってしまった。
 小さい頃には、ビルマにも競馬があったけれど、革命が起き、軍事政権ができると、競馬は廃止され、ギャンブルも禁止された。でも馬は乗馬や農耕で親しんでいたので、馬を見る目はあった。
 「重馬場が上手な馬はよく見分けられたです。そういう馬が逃げ馬の時はよく買いました。単勝7000円とか取ったことがあるんです」
 ピンさんには、軍事政権は、さぞや型苦しいことだろう。熱燗も大好きだったそうで、今頃からうまくなると振り向いた。ヤンゴンに来てからは、酒もギャンブルもやめて、ひたすらまじめすぎる生活だ、と笑った。

 そういえば、昨日、待ち合わせてチャイナタウン行ったジョイ君の父親も、日本で車の修理工として働いており、自分も来年春に日本に働きにいくと言っていた。チャイナタウンといっても、ここは小さな一角で、中華料理店が通り1本にならんでいる。
 ともかく始終停電するし、街灯もないので暗いけれど、中華街はそんなことにおかまいなくにぎやかだった。中国人もここではロンジーを着て働いており、言葉もビルマ語だ。
 ジョイには、彼女が2人いるそうで、最近、それがばれて2人に相当責められたそうだが、2人とも続いているという。軍事政権下でも恋愛は自由で、みんなおおっぴらにつきあっているという。公園などに行くと、ベンチで肩を寄せ合っているカップルも多い。
 そういえば、ミャンマーの女性はみんな顔に、肌色のサロンパスをはっているな、とジョイに言ったら、「サロンパスってなんだ?」という。
街角の古銭売りの女
 「肩こりとかすっきりするんだよ」
 「ふーん、おんなじような感じだな。あれね、タナカっていうんだよ。日本にたくさん田中さんいますね。タナカを顔に塗りつけると、すっきりして涼しい。石の板に水を垂らし、タナカをこすりつけると、白い汁がでるんだ。日焼け止めにもなるし、汗も出ない。肌の手入れにもなるから、女はみんな塗るよ」
 「涼しくって、汗が出ないなら、ロンジーと同じで男もやればいいじゃないか」
 「男は絶対やらない。やったらおかまだ」
 「ロンジーの方がおれにはそう見えるがな」
 「そりゃ、にいさんがおかしいんだよ。それにロンジーはロンジーで、女がはくやつはタメイというんだ。生地とか作りは同じだけど、着方が違う。男は前で結び、女は左で結ぶんだ」
 「ジョイの彼女は酒を飲むのか」
 「飲まないよ。飲む女は悪い女。たばこも吸わない。ディスコの女は両方やるから悪い女だ」
 「でも、きみ、そこにナンパしにいってんだろ」
 「うーん、まあね」
 ナンパというのも、今や寿司、すき焼き、天ぷらと並ぶ国際共用語である。アジアで日本語を学ぶ若者はおおかた知っている。もっとも一番重要な単語かもしれないが。

 これが前夜の続きの話である。バングラデシュの大使館は、ダッカ行きのフライトが決まった後、もう一度来るように言われて、拍子抜けだ。かんかん照りの道を歩いて、シュエダゴン・パゴダまで行った。そこがわかって向かったのではない。途中から黄金を放つパゴダのすごみに導かれて、進んだのである。子供たちがサンダル入れだ、とポリ袋を無理やり手に持たせる。それを持つと、3、4人が後からついてきた。
 屋台で財布を山積みにして売っていた。盗まれた財布の代わりを買わなければいけないが、高級品は狙われるから買う気はしない。山積みの財布も、NIKEとかELMESとか、PRADAとか超高級品ばかりだ。
 「how much?」とたずねると、「2hundred」という。30円弱だ。それなら、ということで、RALFSの黒革を買った。「A」が「O」に変わっていたが。この国には、「COCO CALA」という名のコカコーラやマグドナルドそっくりのマックバーガーもあるらしく、文字を1、2文字変えて、高級品化させるらしいのである。
入手した1ドル札。上は35チャット札。ア・ウン・サン・スーチーの父が肖像だ。
 パゴダに上がる段になると、ついてきた子供たちが「マネーマネー」と連呼した。むりやり持たせたポリ袋は売り物だったのだ。いくらだ、と聞くと、財布と同じ値段を言うではないか。
 20チャット札を差し出した。すると、受け取ろうとしないので、サンダルを袋から出して返そうとすると、あわてて受け取った。
 その後、パゴダの冷たい大理石に座って休んだ。ミャンマーの人たちはここで思い思いにくつろぎの時間を過ごすらしい。女たちが車座になってしゃべくりまくっているかたわらで、赤子を抱いて昼寝している浮浪者風の母親がいる。朱色の僧服を着た坊主頭の少年が行き交う。祈りを捧げるというような感じではなく、涼しいげな休息所という感じ。
 子供たちはまだひっついて離れない。ひと休止してパゴダを出た。ポリ袋を返すと、すごく喜んだ顔をして、手にしていた新品と一緒に、もう一度売り物に戻された。
 町中をさらに歩く。古銭売りの屋台があった。見つけたぞ。ミャンマーでは、末端数字が「5」の紙幣があると聞いていたが、今は流通していないという。「25」「35」「75」チャット札を売っていたのだ。記念に2枚買った。
 すると、今度は、もっと珍しい札を、夫婦が出してきた。大日本帝国がビルマを占領していた戦前、ここで発行したドルやチャットの紙幣だ。「1945」とあり、「大日本帝国政府発行」とあった。偽物かと思ったけれど、偽物を作る印刷技術もないし、なんといっても1ドル紙幣は1ドルで売っているのだ。
 「じゃあ、1ドル紙幣を1枚」と亭主に5j札を出すと、こちらがわからぬとばかりにお釣りをタイバーツ札でくれたので、このヤローとばかりに5j札をもぎ取って席を立ってしまった。ホテルに帰り、ピンさんに聞いてみると、それは本物だという。やっぱり買っておけばよかったか、とじたんだ踏んだのである。

ミャンマー・ルポ

フリージャーナリスト長井健司さんの死で俄然注目が集まるミャンマー。軍事政権下の首都ヤンゴンを2003年に訪問した時、若者たちと交流して同国の実態を知った。大規模な市民蜂起は、当時から予測されたことである。