自転車の男D

 八月が過ぎても暑い日が続いた。 撮影所に行っても、仕事がないと思うと、自転車のスピードは鈍る。とはいえ、辞めるまでに伝授しなければならぬことは山ほどある。茶髪に安物ピアスの若造が、叱られながら日々成長する姿は頼もしい。
 かつては自分もそうだった。映画の世界も少しばかり上向いてきた。おれと同じような辛酸はなめさせたくない。主役は若手に譲った。コマーシャルフィルムの撮影を手伝ったり、福ちゃんとこで雑談したり、それでもあっという間に、九月の一週間が過ぎようとしていた。
 福ちゃんはあれっきり送別会のことを口にしない。タカさんにクロちゃんを加えた三人で、食堂のA定食を食いながら、卒業旅行の計画を話しあったりした。
 「あんた、今夜は寄り道しちゃ、だめだかんね」
 朝食を食べながら、和代に早々とクギをさされた。九月六日である。
 今夜九時に「前編」が放送される。ま、言われなくとも、今夜はまっすぐご帰還、とは自分でも決めていた。撮影所に行くと、会う人ごとに声をかけられた。
 「コバさん、うちでも家族で見ますよ」
 「飲んだくれないで、まっすぐ帰った方がいいですよ」
 かみさんみたいなことをいう者までいた。夕方五時すぎには帰って、好きなカメラをいじって時間をつぶした。台所で和代が、晩酌の支度をしてくれている。鼻歌が聞こえた。やっぱり楽しみにしているようだ。
 八畳間の座卓に冷や奴とおひたしとモロキューが並んで、カツオの刺身が加わった。ビールの栓を抜きながら、和代が言った。
 「最後のおつとめだね。今夜は、とくと拝見させてもらうから」
 彼女もよく飲む。居酒屋の娘だからか、酔いどれ亭主の影響なのか、ウイスキーの水割りをぐいっぐいっとやる。
 「じゃ、カンパーイ」
 「ああ、どうも」
 鳥新の止まり木みたいに舌先が滑らかに回らない。黙々と食い、グラスを口元に運ぶ。
 「内田の有紀ちゃん、ロケの時、どうだった」
 「どうって、可愛いかったよ」
 「なにを言ってんだか。そんな当たり前のことじゃなくってさ。こう、とっておきの裏話とかないのかい。彼氏が出来たとか」
 「おまえな、現場はピリピリしてんだぞ。なに言ってんだ。そんな暇があるかよ」 「ッたく、いくつになっても石頭だね」
 会話はいつもこんな調子だ。すれ違いがなければ、話がはずまない。これが、毎夜の晩酌の肴である。団地の誰々が引っ越したとか、スーパーに何々売り場が出来たとか、和代の話を、ああとかそうとか受け流しながら、時間が過ぎた。
 ほどよく回って、いい気分になった。サッシを開けて、ベランダに出た。西の空が黒ずんでいる。今夜は久しぶりに雨だろうか。
 富良野で雨にたたられたことを思い出した。一九九一年だったか。「北の国から・巣立ち」の撮影で、美術プロデューサーから声がかかった。
 昔、日活の仕事を一緒にしたことを覚えてくれたらしかった。
 「テレビの連ドラのスペシャル版を作るんだ。けど、半端な作品じゃないですから」 一も二もなく応じた。作品に飢えていた。
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