その朝、撮影所は前夜の雪がスタジオの屋根に積もり、真っ白に染まっていた。一九六九年三月四日。いつものように自転車で撮影所に着いた。そちこちに仲間の輪ができ、みんな険しい顔である。
 「コバ、撮影所が、撮影所がなくなるぞ」
 先輩がいきなり怒鳴った。なんのことはわからない。
 「どうしたんですか」
 「ばかやろ。お前、職場委員だろ。撮影所が売りとばされたんだ」
 眉は吊り上がり、怒気含む言葉に息を飲んだ。鼻先に新聞を突きつけられた。
 「日活撮影所売却。映画製作から撤退か」
 呆然と立ち尽くしてしまった。雪が解けだした頃には、電電公社の職員住宅になるという話が伝わった。
 「そんなばかな」。千三百人の社員がここには働いている。こんな無責任なことを会社はやるんだろうか。「オーナー一族は、映画界から撤退したがってんだ」と聞いた。
 映画界の斜陽は激しく、客離れが急速に進んでいた。年間の観客動員数は三億人。全盛時だった五八、九年の四分の一にも満たないという。老舗の神田日活や丸の内日活、博多日活ホテルなど五月雨式に売られていた。
 しかし、ついこないだまで日本映画の黄金時代を築いたこの撮影所を、社員にも誰にも秘密裏に売り飛ばすなんて話があるのか。
 会社側を問いただす集会に後ろからくっついて行った。集会は怒号と悲鳴とヤジが渦巻いた。日頃、高圧的な管理職もさすがに歯切れが悪い。それどころか批判を口にする上司もいた。
 このままでは仕事を失う。焦りが募った。あんなにペダルを踏み込んだことはない。猛スピードで帰った。アパートに飛び込むなり、「和代、撮影所が」と叫んだ。
 「どうしたの。そんなにあわてて」
 笑顔を返された途端、言葉がすり替わった。
 「いや、また給料、遅配だってんだ」
 「なあんだ。そんなの、いつものことじゃない」
 彼女は小さな美容院をやっていた。アパートの大家の娘で、母親が表側で居酒屋を営んでいた。仕事が終わると、そこで一杯やった。いつもツケである。寒い冬、二級酒二本と煮込みで体を暖め、そのまま裏に回って、四畳半で寝転がり、朝、自転車で飛び出す生活だった。
 その店に彼女は時折、手伝いに来た。お互い三十路をこえた苦労人同士、話が合った。ささやかな挙式から十か月と経ってない。心配はかけたくなかったし、これ以上、経済的に世話にもなりたくなかった。
 どうしようと、一人で思い悩んだ。撮影所には立て看やビラが至る所にべたべたと張られ、赤旗がなびいた。組合幹部が拡声機でまくし立てる。
 「目覚めよ。怒れ。立ち上がれ」
 右から左に抜けるだけだったオルグの響きが腹の底に沈んだ。映画の世界に見切りをつけるか。しかし、意地がある。せっかくここまでたどりついたという思いだ。新米のころ、「まず建て込みだな」と指示された仕事は、建材の運び役だった。六尺四方、厚さ二十センチもある平台をあちこちに運んで、日が暮れた。毎日十三、四時間働きずめで、日給五百五十円。町工場の工員で八百円はもらっていた。のこぎり一本握らない。
 「土木現場に出稼ぎに来たんじゃねえや」
 歩いて帰る気力もなく、借金してまず買ったのが自転車だった。飯代と家賃で給料は消えた。待遇は最悪だった。仕事が終わった後、手を洗う石鹸すら、会社はケチった。
 「もう辞めるぞ」と田舎に戻りかけた時、組付きになった。監督名を取って、組名を付け、その撮影班の専属になるのだ。地方ロケに行くと、食事が支給され、出張費も出て、いくらか楽になる。
 組付きは百三十人いる大道具職人から一作品に一人しか選ばれない。新米には難関だ。監督や美術デザイナーの目に止まろうと撮影所に泊まりこんだ。そうやって一人前になったのだ。あのころはキャバレーのフロアのセットをしょっちゅう作らされた。時代劇の長屋も定番だった。元々、大工の腕なら誰にも負けやしない。
 映画作りの楽しさを覚えた時ーーそれは、花の散り際、などと思いたくない。カネじゃない。男はどう生きるか、の問題だ。
 組合は、売却された撮影所敷地の買い戻し闘争に突入した。
 「撮影所はつぶさない。映画の拠点を守り抜こう」
 気づいた時には、強硬派の一人だ。組合活動にのめり込んだ。
 今、己の人生を振り返ると、その十数年が、ぽっかり黒い穴が空いたような空洞感を感じる。あまりに長すぎた。仲間は一人去り、二人去り、自分はずるずるとはまりこんだ。撮影所支部の書記長から委員長に。マルクスもイデオロギーも右も左もわからぬままに、専従職を続け、大作業場を離れて組合事務室に入り浸った。バックナンバー

自転車の男B