闘争は揺るぎなかった。八年後、敷地の三分の一、八千坪の買い戻しに成功、映画作りの拠点は守った。売られた敷地にマンションが建ったのはそれから数年後だった。
 しかし、やり遂げたという充足感はない。虚脱感が尾を引く。会社に居残って、意地を張り通してよかったのかどうか。最初は理解があった和代も、そのうち組合活動を嫌いだした。マンションの一つ買ってあげられなかった。斜陽の世界に太陽はいなかったのだ。
 闘争の成果を評価する声はある。が、失われた時間の長さがつらい。組合の居心地の良さに安住したのではないか。惰性に流されのではないかーー自らに発して、それを打ち消すことができない。
 目の前に立つマンションから感じる圧迫感は、そんな諸々の感情の投影なのである。
 「おいおい、コバちゃん、どうしたんだ。こんなとこで魂抜かれたみたいな顔して」
 物思いにふけっていると、後ろから肩をたタカれた。 
 「オッ、タカさん、いやな、組合のこと思い出してたもんだから」
 「そうかそうか、定年まであと一か月切っタカらな。おれだってその二か月後にゃ、おさらばの身だよ」
 タカさんは、名を林隆といい、美術デザイナーだ。美術短大生の頃、TBSのスタジオでアルバイトし、「七人の刑事」とか「銭形平次」の撮影を手伝い、映画作りの面白さにひかれて日活に入社した。四十年来の付き合いで、何でも話しあう友人だ。というより飲み友達だ。
 「コバちゃん、『北の国から・遺言』、えらく評判がいいな。試写会は見たんだろ」
 「それがうっかり見忘れちまって」
 「コバちゃんらしいな。もっとも、テレビ放映まで何日もねえから、楽しみが一つ増えたってわけだ。で、どうだ。前祝いに一杯」
 「おお、いいよ。例のとこでな」
 作業場に戻ると、福ちゃんがおずおずと近寄ってきた。福ちゃんは建具を担当する職人だ。平坂福市、四十四歳。脂が乗っている。十二年前、フリーで仕事していたのを引き抜いてきた。
 「おれ、幹事長に指名されちまった。コバさんの送別会、なんか希望ありますか」
 「そんなん、いいよ。やめろ、よせ」
 「そうもいかないッス。会社からもよろしくって言われてんだ」
 「なんでだ」
 「だって、コバさん、れっきとした元重役でしょ。おれの面接官だったし」 
 「からかうんじゃねえ。倒産会社の重役がなんだってんだ」
 「けど、にっかつ撮影所株式会社、装置担当取締役だったことは確かじゃないですか」
 そう突っ込まれると、返事に窮する。軽く受け流しはしたが、このことも自分から決して口にしない。
 撮影所用地の一部を買い戻しはしたが、映画界の不況は変わりない。ロマンポルノ路線で再建を期したが、うまくいかず、八八年、日活は五つの事業体に分割され、「KKにっかつ撮影所」という名の独立採算の法人になったのだ。
 組合活動に疲弊し、五期務めた委員長を降りて、まもなくのことだ。固辞したが、撮影所を救うために手助けを、と頼まれたら断れない。タカさんが美術担当取締役を務めるのなら、と引き受けたが、会社は五年後には倒産してしまった。
 その自責の念も強い。自信も失った。福ちゃんを引っ張る時も、「映画界はどん底を抜けた。これからは面白くなる」と口説いて入社させたが、二年も経たぬうちに倒産の事態になったのだ。恥ずかしかった。その分、職人技はたたきこんでやらねば、と一番弟子として鍛えあげた。
 「おれの柄じゃなかった。やれるわけないんだ。やらなきゃよかった」
 組合闘士と重役とーー二つのイスはいずれも、座り心地は良くはなかった。おれには、やっぱりあの作業場が性に合っている。あの作業台に魂をあずけていたことを忘れてはいなかっタカ。取締役を降り、更正会社の一職人として大作業場に戻ったのだ。
 「おい、福。お前、おれの気心わかってんだろ。送別会なんて柄でもねえし、資格もねえ。いいか。お断りだぞ」
 福ちゃんは困った顔で仕事に戻った。
 
 「鳥新」は、撮影所から一キロと離れていない。自転車をひきずって、タカさんと店に向かった。終戦後すぐに建ったと思われるトタンぶきのぼろ家を改造して焼き鳥屋にしてある。格子のガラス戸はすすけている。太文字でやきとり、玉子焼きなどと品がきを並べた看板からして昭和の遺物という古めかしさである。
 「よっ、らっしゃい。おそろいだね」
 白髪頭の主人が威勢よく声をかけた。
 「おやじ、ビールだッ」
 タカさんの声も力強い。「よし、おれも」。ここに来ると、急に元気づく。それどころか、日ごろ寡黙なたちだが、止まり木にとまった途端、饒舌になる。にこやかな主人が聞き役に回り、ストレス発散の場だ。
 そういえば、今夜は早く帰ってきて、と和代に言われていたことを思い出した。看護婦寮にいる娘の知子が久しぶりに戻るので、親子水入らずで夕食をと言われていたのだ。
 「ま、一杯ならいいか。まだ早いし……」
 もっとも二人で飲んで、一杯で終わったことなど、この三十年間、ただの一度としてない。タカさんが口を開いた。
 「鳥新通いも卒業だな。定年になったら、かみさんをごまかしたり、言い訳並べることもないもんな」
 「新米時代から通いつめてっからな」
 「最近、昔のことばっか浮かぶんだ」
 「やっぱり、タカさんもか」
 「こばちゃんよ。おれな、入社して小百合ちゃんに、すれ違いざま会釈された時は、卒倒しそうになったぜ」
 「おれもな、入社した時、キューポラの町が撮影中で、仕事ほっぱらかしてのぞきに行って、よく怒られたっけ」
 実家がある中央線信濃境駅近くに映画館があった。木工屋で月給もらったら、真っ先に飛び込んだ。石原裕次郎のアクションに興奮し、浅丘ルリ子の可憐さに目を奪われ、映画館から出る時には、たばこの吸い方からしゃべりっぷり、髪のなでつけ方まで、裕ちゃんと寸分違わぬといったさまだ。おやじの知り合いに大道具の職人がいると知って、おやじに頼んだが、面白半分と見られて断られた。五人兄弟の三男坊。おふくろは小学一年の時、亡くなった。以来、母親がわりの姉が知り合いに頼んでくれた。
 「銀座バー街、街灯灯ると、本物みたいだったな。あそこじゃ、アキラのアクションが最高だった」
 「小林旭かあ。裕ちゃん、いいよねえ。あの二人がスターでなけりゃ、おれたちもこんな貧乏するこたあ、なかったな」
 「そうだッ。洗脳されて飛び込んじまったもんな」
 「よし、裕ちゃんとアキラに乾杯だ」
 ぐーんと盛り上がった。いつもこうだ。お互い耳にタコが出来るほど交わしている話である。二本、三本……グラスをあげるピッチが早まり、いつも通り焼酎の水割りに治まった。 
 「コバちゃんよ、どうだい、クロちゃんと三人で卒業旅行、行かねえか」
 「おお、いいねえ。一生に一度だ。で、どこ行こうか」
 「そうよな。北海道はどうだ。初秋の北の国も悪かねえだろ」
 「えっ」と小さくつぶやいて、詰まってしまった。タカちゃん、うれしいな。あんたのそういうとこに惚れてんだ。腹の中で、そうつぶやいた。何げなく言っているが、きっと熟慮した末の旅先なのだ。
 「九月の六、七日、北の国からが放映されっだろ。その後にどうだ」
 「タカさんよ、ありがとうな」
 「なんだい。ええッ、改まった口調で。北の都でワアッとやろうじゃないか。鬼もいねえことだし……」
 タカさんの奥さんは公務員だ。経済的に昔からかみさんに助けられ、頭が上がらない身同士である。で、飲みっぷりでは、誰にも負けない。必然、二人とも恐妻家だが、夜は更けて、そんな存在は、もう二人とも忘却の彼方にある。
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