第2回「ロンジー」
 ミャンマーには、誰しもある程度、暗いイメージを抱いている。軍事政権によるアウンサンスーチーの軟禁にくわえ、人々は、自由な言論を抑えられ、笑顔も少なく、陰鬱な生活を送っていると思い込みがちだ。
 翌日は朝から太陽がぎらぎら照りつけ、すさまじいばかりの猛暑。ホテルの朝食が、陰鬱なイメージを吹っ飛ばした。5jの部屋代で朝食込みという。7階の屋上まで上る。エレベーターはない。屋上からヤンゴンのシンボル、スーレーパゴダの金色の屋根が、太陽を照り返して光り輝いている。屋上は観葉植物のポトスなどで縁を生け垣にしてある。窓のない部屋にいただけに、開放感がある。
 バイキングだった。これがなかなかいける。トーストは七輪様の炭火で焼く。1分もたたないうちに、金網模様に焼けた。バターのほかジャム類が7、8種類もある。エッグ料理のほか、野菜の煮込みやマカロニ様のヌードル、サラダに果物とバラエティーに富んでいる。西洋人のシニアグループ5人と、青年3人が食べていた。
道端にあるランプの修理屋は繁盛している
 コック長らしき男がジョークを飛ばしてみなを笑わせている。わたしを見ると、「おいしい、おいしい」と笑った。確かにうまい。ジュースも牛乳もみんな手作りだ。
 食事を終えて部屋に戻ると、ぷつんと音がして真っ暗になった。これがヤンゴン名物の停電か。なのに、コンセントの差込口だけはやたらとある。どんな仕組みになっているのかわからないが、青紫の非常用の明かりがついて真っ暗ではない。下のフロントに行くと、玄関先に自家発電機が2台置いてあり、けたたましい音を立ててフル稼働していた。
 フロントマンが復旧には1時間ぐらいかかるというので、半ズボンをはいて表に出て、カメラ散歩することにした。それで、100bも歩かぬうちに、この国の面白さにぶち当たったのだ。路上の物売りが実に、ユニークである。

 工業とか商業とか未発達の、初期の家内工業そろい踏みとでも言おうか。まずランプの修理屋がいた。電気より確かにこちらの方が安定している。ビニールシートいっぱいに台所用品を山積みにして売っている。それも金皿を投げて音をたてながら客寄せにはやしたてる。そのうち包丁まで投げた。客は動じない。がらがら音を立てながら引っかき回して品物選びをしている。
 これも物売りなのか。使い古しのペットボトルを7本束にして売っている。そのふた、FUJIフイルムのプラスチックの空き箱、コルク栓、薬の空き瓶。そのへんを探せば捨てられているだろうがらくたが商品になっている。
 道具と電気器具、ボールペン、古本などの出店が目立つ。古本は台に積み重ねてあり、夜も店が出ていた。意外に人がよっている。コピー屋も多く、大繁盛している。A4用紙に書き連ねた文書をぱったんぱったんとコピーしている。停電が多いけれど、この国の人々は文物好きで、手作業も敬遠しないのではないか。
 カメラを向けると、おとなたちが後ろからファインダーをのぞき、がやがやとはやしたて、撮れた写真を見せると、店などほったらかして立ち上がって見に来る。インド系のミャンマー人は視線が異常に強く、こわいぐらいだが、笑うと愛嬌がある。みんな実に明るい。
 だが、経済の疲弊は目に余る。さびついたトタン屋根、はげ落ちた外壁、内部の鉄骨がむき出しになった廃墟化したビル。建物の古さは例えようもないほどすさまじく、ホテルの屋上から、その異様な光景を眺めるだけで一見ものである。
 スタンドのガム屋は50b間隔に1つあるぐらいに多い。若者が台の上のたばこを開けて、1本取りだし、100チャットを払って、ライターで火を付けた。ばら売りしているのだ。ジュース屋も多い。みんな、金属のコップでポリ容器をたたいて客を呼び込んでいる。親子で働いているということは、学校には行ってないということか。
 母子でやっていたジュース屋台に座った。中1ぐらいの息子がミカンをつぶして丹念にジュースをこしらえた。150チャットということは22円ぐらいか。
 秋みたいに街路樹の葉が舞い落ちている。33度ぐらいあるだろうか。時折、涼風が木陰を走り抜け、冷たい天然ジュースをいっそうおいしく感じさせた。
オレンジをつぶしておいしいジュースをつくる少年。カメラが気になってしかたない
 モンキーバナナの店が30bほど並んでいる。黒ずんだものも多く、質は相当におちる。カメラを向けたら、全員がこちらを見た。そこを過ぎると、ティーカフェがあった。廃材を燃やして湯を沸かし、ポットがわりのやかんに紅茶を入れて、台の上に出す。それも飲んでみたくなった。クリーム色の茶を一杯に注いだ白い小さなティーカップと、やかんが出された。甘い。香りもいい。これも150チャット。やかんにはお代わり用が一杯に入っており、全部飲みつくすには1時間半ぐらいかかりそうな量である。
 さらに歩いた。この町には自転車もバイクもない。交通事故が多発して危険だという理由で、中心部は法律で禁じられたそうだが、移動の自由をなかば取り上げられたようなもので、不便にはちがいない。若者たちはきっと不満だろう。
 これまですれ違いの際に物珍しそうな顔でみつめたり、「ヘロッ」と奇妙てきれつな声で呼びかけられはしたが、客引きなどは一回もない。これはアジアの奇跡とでもいえまいか。町は騒々しいが、客引きはうるさくないだけ、ありがたい。
 そんなことを考えて、スーレーパゴダ付近を歩いていると、23歳前後の若者が日本語で声をかけてきた。
 「ぼく、日本語の名前、ジョイです。先生は大阪の人です。日本語学校に通ってます。いま、どこか行きますか」
 「いや、別に………」
 「ガイドじゃないです。一緒にいて邪魔ですか」
 「うーん」と言って立ち止まった。表面通り、言葉を受け止められないのがむずかしい。
 「ぼくの家は生地屋です。市場に店があります。市場行ってみませんか。5分ぐらいですよ」
 5分ならということでついていった。日本語を勉強しだして2年になるという。ブルーのロンジーに、ビニールサンダルですたすたと先に歩いた。市場は巨大な体育館みたいな建物の中に、何棟もの長屋だて風の建物が並び、生地屋や貴金属店、美術品店、かばん屋、電気店などがひしめいている。
 どうもスカートが気になる。巨漢もチビもまいており、それなりにファッション性もあるようだ。
 「ミャンマーじゃ、男もスカートをはくんだね」
 「スカートじゃないです。ロンジーです。これ、はくと暑くない。涼しいんですよ」
 「ふーん。パンツははいてんのかい」
 「10人中、3人ぐらいははかない者もいる。ぼくは今ははいてますよ」
このティーセットで18円ぐらいか。超お得です
 「でも、寝るときはロンジーは脱ぐんだろう」
 「いえ、はいてます」
 「暑いんだから脱いでパンツ1つで寝たらいいだろうに。日本人もアメリカ人もみんなそうしているぞ」
 「恥ずかしいですよ。家族がみんな寝てますから」
 「恥ずかしいって、パンツはいてるんだぜ」
 「ぼく、ホテルで1人で寝た時、ロンジーとって寝ました。落ち着かなかったけどね」
 「ロンジーってそれ、いくらぐらいするんだい」
 「ぼくのは5000チャットの安物。3000種ぐらいからあるかな。コットンとシルクと、その合繊と。コットンでもピンからキリまであります。日本人の旅行客も喜んで着ますよ。どうですか」
 「いいよ。じゃ、ズボンは持っていないんだね」
 「いえ、あります」
 「いつ、はくんだい」
 「ディスコに行く時です。今んとこは」
 「ディスコにだって。ここに、ディスコがあるの?」
 「3、4軒ありますよ。女も遊びに来てます」
 ジョイは、大学を出て姉がやっている生地屋を手伝いながら、学校に通っているという。その店に着いた。生地を壁一杯にたてかけ、それなりの店構えである。名刺をくれた。怪しげな勧誘もいまのところない。それなら、もう少しヤンゴンの若者事情を聞き出せるはずだ。疲れたからホテルに戻ると言うと、またついてきた。で、夜、チャイナタウンの安食堂に行く約束をして別れた。


ミャンマー・ルポ

フリージャーナリスト長井健司さんの死で俄然注目が集まるミャンマー。軍事政権下の首都ヤンゴンを2003年に訪問した時、若者たちと交流して同国の実態を知った。大規模な市民蜂起は、当時から予測されたことである。