ミャンマー・ルポ

フリージャーナリスト長井健司さんの死で俄然注目が集まるミャンマー。軍事政権下の首都ヤンゴンを2003年に訪問した時、若者たちと交流して同国の実態を知った。大規模な市民蜂起は、当時から予測されたことである。

第4回「ヤンゴン川上り」


 東京の我が家では、ストーブを灯したとか便りがあったけれど、ヤンゴンの暑さはただごとではない。うだるような暑さが連日、続く。自転車もないから歩く以外にない。タクシーにもクーラーなどついていない。ともかくこの国では、電気は超貴重品である。
 が、モンスーンの土地柄、涼しい風が吹く。時折り、街路樹を揺らすほどの風がある。ヤンゴン中心部の街並みは、北側に国営鉄道ヤンゴン駅、南側にヤンゴン川が流れ、その間に東西を結ぶ5本の道路が走り、南北に路地が縦長に幾筋も通っている。東西のほぼ真ん中にスーレーパゴダが位置している。
 涼しい風は北から路地を駆け抜けてゆく。道路が交差する角には、青々とした葉を茂らせた街路樹の大木がある。街路樹のまわりは、必ず暑さをしのぐ人々が輪をつくってすわりこんでいる。
 瞬間、40度ぐらいある時がある。ミャンマーはこれから真夏に向かうのである。歩いていると、この路地の角で必ず立ち止まりたくなる。北に背を向けると、Tシャツの汗を吸い取るような涼風で、布がひたひたと揺れる。なのに、南側に向いた顔や首筋は熱暑にさらされて、なんだか妙な感じである。
 
この船着き場から船は出る。対岸の村などへの渡し舟に乗り込む列
毎日、ヤンゴン散策ばかりでも、と思って、マネージャーのピンさんに、近郊に見るところはないかとたずねた。だが、ミャンマーではどこに行っても、パゴダである。閉塞的政治状況のこの国では、外国人に開放できるところは、確かに神聖なるパゴダしかないのだろう。
 それもどこでも行っていいというわけではなく、様々な規制があるようだ。パゴダによっては、外国人観光客からは10jも入場料を徴収するところもある。普通の人々の月給は20jともいわれている。
 ピンさんが勧めたのは、船に乗ってヤンゴン川を上ったところに、トンティーというパゴダがあるというのだ。2時間ぐらいで行けるらしい。そこは、焼き物の町でもあるらしい、と聞いて、それなら行ってみようか、とカウンターで、ピンさんにボート乗り場の地図を書いてもらっていたら、ノリコとかいう関西大学文学部の女子大生が、わたしも行きたい、というのである。
 威勢のいいのおねえちゃんである。格好がまた傑作なのだ。まず顔にタナカを塗っている。おさげ髪スタイルだ。女性がはくタメイではなく、男が着用するロンジーをはいている。しかも男も女もおしりの方に継ぎ目がくるわけないのに、彼女のは後ろに布の端があり、シールをはがした後が白くてんてんと残っているのである。
 「もうおなかが一杯で、一杯で…」と腹をさすっている。どうしたのか、と聞くと、町中を歩いていると、ミャンマーの老若男女から声をかけられ、つまみ食い的にバナナや菓子、パンの類など、いろんなものをもらって満腹になったというのだ。ミャンマーは外国人観光客が少ないうえに、日本人の女の子はとりわけ珍しいのだろう。
 ボート乗り場に向かう間も、通りのあちこちから声をかけられ、波止場のカフェでも、若い男たちがにこにこ笑いながら、ノリコに声をかけてくる。アユが原宿でも歩いたような人気だ。ノリコがまた上手な英語をわざとカタカナ風に崩して、日本語とチャンポンにしながら、話に応じる。誰かがリンゴをあげた。1個200チャットはする代物だ。それかじっていると、インド系の荷役人がテーブルでカレーを手でつまんで食っている。
 「どうだ、うまいぞ。ひと口、食ってみろ」 といわれ、ノリコは右手でひとつまみつまんで、口に放りこんだ。辛いっ、と叫ぶと、カフェ内の30人を超す男たちが一斉に彼女の方を見る。そのうち、カフェの若旦那みたいなあんちゃんが出てきて、ノリコを隅のガラスボックスの中に連れこんで、なにやらビデオテープを見ている。出てきたノリコに聞いたところ、
 「ボートなんかやめて、ここでカラオケやろう。酒飲んで楽しもう、と誘われた」というのである。船を待つ間も、おばあちゃんらと小舟の床にすわりこんで、また菓子などをつまんでいる。ブリッジの日陰で待つわたしの方にも、様々な男たちが寄ってはくるが、食べ物を恵んでくれたりはしない。
 ところで、船1つ乗るのに、ここでは外国人は、チケット売り場の責任者のもとに連れていかれ、行き先と目的、パスポート番号、国籍などを聞かれて、そのうえ、2jも徴収される。どうみても倉庫にしかみえない事務所に連れていかれ、年輩のお役人らしきおやじの訊問を受けた。10数人が回りを取り囲む。全部、野次馬である。
カフェの若旦那にカラオケに誘われたちゃっかりノリコ
 面倒なので、英語がうまいノリコに任せた。すると、野次馬らは、マスター、マスターなどと声をかけてくる。気の毒なのはノリコである。青いチケットの氏名欄には、頭にMrsがついていた。そのあたりから全部引率というのか、勝手な行動をさせないように監視付きとでもいうのか、3、4人が回りについている。
 午後1時、船が来た。木造の2階だて船だ。チケットを見せると、乗務員が2階船首方面に案内し、ここが一等船室だ、とドアを開けた。うーん、とうなる以外にない。昔、夕涼みに使った番台が4台あった。ここに座れ、という。朱色のシートが敷いてある2台は、朱色の僧服をまとった若い坊さんが1人ずつ座っている。乗務員が外人客なのだから、1つにしてくれ、と頼んだが、なにやかやと言って拒否している。
 ここは仏教国である。坊さんは偉いのだ。バスなども無料だし、席は譲ってもらうし、人々に食べ物は供してもらえる。おそらく、この1等船室も指定券なしのただ乗りなのだろう。乗務員も、仕方ない、とばかりにあきらめて、薄汚い番台を指さして、ここに座れ、と出ていった。
 その直後だ。ノリコが「このくそったれ坊主」と吐き捨てた後、「あんたら、1つになれよ。わたしらそこに座らせてんか」と、どすのきいた上方言葉で迫ったのである。気の弱そうな方がそれで立ち上がったら、ノリコはすかさず座り込んで、「わたしら、2ドルも払ったんやから」とわたしにも勧めてくれたのである。
 15分ほど遅れて船は出た。汽笛がなかなか素晴らしい。昔、聞いたなあ、という重く尾をひき、それでいてよく澄んだ音色だ。手を振ると、誰かれとなく、振りかえしてくれる。しかし、船は自転車より遅いのではないかと思える速度で、川を上っていく。
 茶褐色の水の色がもし、澄んでいたら、どれだけ素晴らしい船旅だろう。
ぼくの父ちゃんは荷役人だと、少年は自慢そうに語った
 なかなか目的地に着かない。ピンさんは2時間と言ったので午後3時には到着するはずなのに、船着き場らしきものが見えない。どこまでも田んぼや原野の広がる景色が続き、時折り、思い出したように人家が現れる。人家といえるようなものではない。粗末という表現では到底足りない。
 それに、坊さんがCDカセットを買ったのだろう。新品を箱から取りだし、ボリューム一杯に流行歌を流すのである。うるさくて昼寝もできない。坊さんとは反対側の席に座っていた主婦が、ノリコを呼んだ。
 「何にも食べてないようだけど、これ食べたら」と弁当箱1箱まるまるくれたのだ。
 「みんな優しいなあ」と言いながら、ノリコは食らいつく。魚を甘露煮風にしたような弁風の料理だ。
 午後4時、もう太陽の光がオレンジがかったころに、とある船着き場に着いた。野菜や雑貨品のかごを持って、あわただしい乗降が始まった。トンティーはここらしい。こんな所で降りて大丈夫なのか、という所である。ノリコがサイドカー風の自転車人力と話をつけ、パゴダ行きが決まった。背中を向き合わせて、わたしは後方を見ながら座席に座っている。ノリコは運転手と同じ向きだ。
 パゴダは地元の人たちのお参りも終わって、掃除が始まっていた。黄金のパゴダの後に、まん丸い夕陽が出ている。大理石の上の人影が急速に失せて、夕闇が迫ってきた。この国では大人の作業には必ず子供がついており、よく手伝う。それだけ教育の場から離れているということだから、ほめてばかりはいられないが。
 30分ほど費やして、帰りは馬車のタクシーでバスターミナルに向かい、そこからヤンゴン行きバスに乗った。バスだと地元の人と同じ料金で、おぼ同じ距離の陸路だが、料金は10分の1ぐらいだ。しかも到着時間も2時間以上早い。
 出発間際のバスは、通勤ラッシュで混んでいた。しかし、若い主婦が席を譲ってくれたのである。こんな経験はアジアで初めてだ。何にもしないのに、えらく疲れた。一体、何をしに出かけたのか、まるで不明の小旅行だ、と2人で話したが、この国の人々の優しさに、たくさん触れたことだけは確かやわ、とノリコは語ったのだった。